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日本人にわかるキリスト教を求めて

26May2012+011_convert_20120623181132_20120623222548.jpg井上洋治神父は、遠藤周作氏と共に、日本人の感性で正直に受けとめられるキリスト教を一生をかけて模索し、1986年「風の家」をはじめました。このサイトでは、「風の家」運動を引き継ぐ平田栄一が「求道俳句」ほか、日本人キリスト者の道を模索する試みを紹介していきます。お問い合わせ 略歴 著書

南無アッバの集い&平田講座(第27回)要約  

2012・8・25=テキスト『心の琴線に触れるイエス』
p・38
前回、救い「表現」を日本的に考えるということから、遠藤周作さんの『侍』を紹介しました。
今日はもう少し、『侍』(新潮文庫)から言葉を拾ってみましょう。「侍」といっしょに太平洋を渡った商人たちが、次々と洗礼を受けようとするのを、宣教師ベラスコが感慨に耽る場面で、次のように述べます。

「私の思い通りになったのである。自分がとったこの術策が多くの善良な基督教徒から非難されることは知っている。だが日本を神の国にするためには並みの手段では叶わぬ。たとえこの商人たちが利のため、取引きと商いとのために、主と洗礼を利用したとしても、神は洗礼をうけた彼らをお見棄てにはならぬであろう。一度、主の名を口にした者を、主は決して放し給わぬからだ。そう私は信じたいのである。」(一六八頁)

こういうような物言いは、この小説の文脈から推して、西欧キリスト教のずいぶん身勝手な見方のように思えますが、アッバの無条件のゆるしと抱擁性という、イエスの一番言いたかったことを念頭に置いて受け取れば、どんな下世話な理由で洗礼を受けても(受けなくても)、信頼一つで救ってくださるアッバを表現しているとも言えましょう。遠藤さんの信仰も、もちろん代弁している所があると思います。ちなみに、うちの奥さんの場合は、仏教のお葬式は暗くて嫌だ、というのが、最終的に受洗に踏み切った理由です(笑)。

「パードレさまたちがどうであろうと、私は私のイエスを信じております。そのイエスはあの金殿玉楼のような教会におられるのではなく、このみじめなインディオのなかに生きておられる――そう思うております」(二〇九頁)
これは、インディオの中に定住した日本人の元修道士が、「お前は切支丹を捨てたのか」と「侍」に聞かれて答えた言葉です。

その他、エスパニアでの司教会議の席のベラスコの言葉(二九一頁)、帰途再び出会う元修道士の言葉(四〇三頁)、評定所へ向かう時の名言(四七九頁)など、日本人としてキリスト信仰に生きようとする私たちに、大きな示唆を与えてくれます。

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