「南無アッバ」を生きる ホーム » スポンサー広告 » 求道詩歌誌「余白の風」 »第200号-2013年1月発行*通巻200号達成記念

日本人にわかるキリスト教を求めて

26May2012+011_convert_20120623181132_20120623222548.jpg井上洋治神父は、遠藤周作氏と共に、日本人の感性で正直に受けとめられるキリスト教を一生をかけて模索し、1986年「風の家」をはじめました。このサイトでは、「風の家」運動を引き継ぐ平田栄一が「求道俳句」ほか、日本人キリスト者の道を模索する試みを紹介していきます。お問い合わせ 略歴 著書

スポンサーサイト  

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

category: スポンサー広告

tb: --   cm: --

第200号-2013年1月発行*通巻200号達成記念  

*日本人の心の琴線にふれるイエスの顔を求め、福音を生きる

会員作品とエッセイ(*主宰コメント)

三浦  井口萬里子

こころなく言ひしひとこと年経しにわが十字架にいま未だ残れる

ミサ終はり神父が戻り来し風に燭光の香のほのか付きゐる

*①うっかり言ってしまった過去の「ひとこと」が、ずっと経ってから忽然と思い出され、苦しむ。辛い経験ですが、確かにその「十字架」は、主が共に担ってくださっています。


稲城  石川れい子

ホスピスの友の笑顔や降誕祭

初暦余命三月よ南無アッバ

初茜赤子生まれり南無アッバ


主宰「求道俳句集」選

虹色に空染めてより初日の出  栄一

転生はあるやもしれず冬の虹

俺はまだ生きているぞと賀状来る

*②「もし明日世界が滅びても、ぼくは今日りんごの木を植える」といったのは、ルターでしたでしょうか。この世の命が種、蕾となって、あの世で開花する。


練馬  魚住るみ子

老い深む心の枷を解かれたり成し得ることをシンプルに 南無アッバ

朝毎をお口元気体操頬に当つる指の冷たし冬 南無アッバ

*①井上神父がおっしゃるように「老年はアッバにあれこれお返しする時期」。「枷が解かれる」のは、その大仕事は為されている証左かと。


長崎  片岡惇子

石蕗の花宇宙の闇も輝かす

秋雨や煙る天地を包むもの

立冬や見て見てと幼児目の光

 長崎でのホームの生活は、与えられるばかりです。何かボランティア活動をと、社会福祉協議会をたずね、三ヶ所紹介して下さいました。ところが思わぬ年齢という壁があり、丁寧なお断りがありました。それでも一ヶ所受け入れてくれました。

 発達の遅れた子どもも、そうでない子もおもちゃを通してのびのびと遊んでもらう。おもちゃの館「ピーターパン」です。自閉症等障害を持った子どもが、同じ遊びを繰り返し、繰り返しするが、出来ない。手助けして、やがて出来た時、無表情だった子がかすかに、にこっとする時の喜び。母親にべったりだった幼児が、母親の存在すら忘れたように、走り回り、新しい発見をすると「来て来て、見て見て」と手を引っぱりに来る。

 一日中、動きの激しい子どもたちと一緒になって、遊びまわっていると、くたくたに疲れますが、それは気持ちの良い疲れです。ボランティアの方々との良い出会いもあり、神様に感謝です。

*③どこまで、どのように「手助け」するか、私も職場で日々迷う所。「出来た」時の感激は本人にはもちろんですが、気がつくと、むしろ手を貸した方が学ばせてもらったりしていることも多い。教えることが最大の学びだという所以です。


豊田  佐藤淡丘

大花野人の跡絶へし径をゆく

土の道しかと踏みしめ鳥渡る

道の辺の紅葉を拾ふ火をひろふ

やはり、土の道は体によい。そんな確信を持って、土の道に降り立ちわざ態と飛び跳ねてみる。軟らかい振動が大地の底から伝わるように、わが身を包んでくれる。
不思議な感動の一瞬。一日の始まりもここからと思う土の道。今日もだいじに生きようと思う。南無アッバ・南無アッバ

*なぜ「土の道は体によい」のか。なぜ私たちは「土」に郷愁を持つのか。理屈でなく、実感として土―大地は私たちの母胎なのでしょう。「死んだら土に返る」という発想は快いものです。


坂城  塚田明人

我腹の手術の傷の痛む夜主の御苦しみ耐え難きを知る

母が逝き父また去りし秋の暮

 自分の心とからだの栄養になるものに、しっかりと根をはること、そして、自分の心があたたまることにしっかりと手を広げている事、このことだけに励んでいれば、人も時至れば、必ず、美しい花を咲かせる。だから、早くいい花をさかせようと焦ったり無理するのでなく、ただ、「大地に根をしっかり張り、葉を天にひろげていればいい」(塚田氏発行の「通信」より)

*水野源三さんの詩から触発された一文、心にしみます。大病をされたりご両親を亡くされたり・・・・しかし、南無の心で毎日過ごされているご様子が、facebookからも伝わります。


一宮  西川珪子

遠吠に柿の実かすかに震えたり

紅葉且つ散るさまざまや人の逝く

生い立ちは聞かず語らず秋深む

*②人は死に様を選べない。先月、所属教会の主任司祭が高速道運転中の心臓発作で急逝。しかししっかり停車、ギヤをニュートラルにし、そのまま逝ったのでした。最期までの見事な気配りはアッバの御業。


品川  松永弘之

先人をはばみし波濤を下に見てジャンボ機は飛ぶ聖地へ向けて

みどり児をらくだが囲む聖夜かな

*②この「みどり児」の光景は、東西南北どこにでも、そしていつの時代にも絵になるように思えます。イエスのご生涯がどのような私たちにとっても、救いとなる所以です。


高知  赤松久子

距離を置くすべ与えられ南無アッバ

何となくずれを感じるパウロの書

さまざまな人夢に来る年の暮

ひと日終え身を横たえて南無アッバ

*①私は「為す愛」「為さざる愛」という言葉を連載でも使っていますが、何でも人に介入してあれこれしてあげる、というのが愛ではないのですね。ときに「距離を置いて」ぐっと我慢して見守ることも大切かと。


蓮田  平田栄一

福音の朗読途中に鼻をかむ美しき婦人も混じる朝ミサ

各々は「神の作品」聖樹立つ(エフェソ2・10)

*新年あけましておめでとうございます。昨年中は大変お世話になりました。失礼ながらこの場を賀状代わりとさせていただきます。

世事はめまぐるしく変化し、皆様におかれても、ご家族や個人的にも様々な喜怒哀楽を経験されていることでしょう。

しかし吾らのアッバは私たちに、万物に、変わりなく「悲愛のまなざし」を注がれています。
「余白の風」発行通巻二〇〇号にあたり、本誌が「南無アッバ」の心が新たにされる、一助ともなりますよう祈願いたします。


南無アッバの集い&平田講座(二五)要約
2012・6・23=テキスト『心の琴線に触れるイエス』

前回まで、救い表現を日本的に考える言葉・翻訳の問題を考えながら、八木重吉ほかの作家を紹介しました。
p・37
あと二人紹介します。
遠藤周作=おなじみですが、最近文庫で読み返した『夫婦の一日』では、井上神父が解説を書いています。1980~83年、大作『侍』を書いた後、大作『スキャンダル』へ向う足取りが伺える小品集。短編小説のような形なので、そのままの告白ではないかもしれないが、五十代半ばで書いた『イエスの生涯』を、六十歳になって書き直さなければならないとか、「確たる安心感が無い」(「六十歳の男」p.90)とか、意外というか正直というか、遠藤さんからキリスト教に入った人間にはちょっとショックな言葉が並んでいます。でもそういう格好をつけない、正直な求道姿勢が、日本人の心に共感できるキリスト教を生んでいくのでしょう。

三浦綾子=私が最初に出したエピグラム詩集『今を生きることば』(1994年)は三九歳のときに書いたのですが、そのもとは「倫理」授業で作った自作プリントです。

当時、新設校に配属されて、ともかく授業が成り立たなくて困っていました。何かいい教材がないかと探したあげく、自分の今考えていることを書いて、そのままストレートに生徒にぶつけてみようと思い立ったのです。
その最初の自作プリントを読んだ教え子が、今はもう一児の母になって、先だってfacebookで再会したのですが、その内容をよく覚えてくれており、びっくりしました。

出版にあたって、帯文を書いてくれたのが三浦さんでした。当時パーキンソン病が悪化しながらも、『銃口』という小説を書いておられる、というお手紙を頂いて、胸が熱くなりました。


寄贈誌より 

「日矢」五七五号        新堀邦司

はじめての孫は佐和子や星月夜

フィアンセを迎へて秋の宴かな


「こみち」二五五号       魚住るみ子

つくつくし鳴き出で疎林残照す

ふり仰ぐ聖母子像や秋真白


 二水会『驢馬』カトリック六甲教会  柴田章彦

ガリラヤは湖畔の旅寝春の月

湖風は囀りのせて野外ミサ

category: 求道詩歌誌「余白の風」

tb: 0   cm: 0

コメント

コメントの投稿

Secret

トラックバック

トラックバックURL
→http://yohaku5.blog6.fc2.com/tb.php/2312-bf1ae651
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

講座・南無アッバの集い

求道詩歌誌「余白の風」

最後の南無アッバミサ

カテゴリ

全記事表示リンク

▲ Pagetop

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。