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日本人にわかるキリスト教を求めて

26May2012+011_convert_20120623181132_20120623222548.jpg井上洋治神父は、遠藤周作氏と共に、日本人の感性で正直に受けとめられるキリスト教を一生をかけて模索し、1986年「風の家」をはじめました。このサイトでは、「風の家」運動を引き継ぐ平田栄一が「求道俳句」ほか、日本人キリスト者の道を模索する試みを紹介していきます。お問い合わせ 略歴 著書

(33)第29章 三つの「行為」と二つの「愛」--ユダヤ人にはユダヤ人のように--「善いサマリア人」からの焦り--愛は自我行為ではない  

*「風」第92号2012年冬掲載
一九 三つの「行為」と二つの「愛」

前号では、神の愛への応答としての「行為A」、救いの条件としての「行為B」、そして祈りに代表される信仰としての「行為C」を、井上神父の言葉から抽出して、「信仰」と「行い」について考えてみました。そのなかで井上神父は、「行為C」を幅広く解釈し、強調していることが確認できました。

その具体を、「信仰」「帰依」「合掌」(祈り)「生きること」等々と敷衍していけば、それはたしかに、静的な信仰か動的な行為か、というような、単純な二律背反的「あれかこれか」の問題ではない、ということも了解できます。

<そういう意味では信仰と行為というのはそんなに対立するものじゃないかもしれませんね、広い意味に解すれば。>(『パウロを語る』一七七頁)

と神父が言うゆえんです。

このように福音に預かるために「行為C」を強調する神父は、ファリサイ派の自力救済的な「行為B」はもちろんのこと、救いの応答としての「行為A」をも殊更に奨励したり、強調するということはありません。

本稿第二部(『すべてはアッバの御手に』)では、「南無アッバ」の究極的な姿として、イエスのケノーシス(自己無化)的姿勢を見て取ることができる、という井上神学=アッバ神学からの結論を得ました。そこをスタート地点としてこの第三部を始め、イエスの--引いてはわたしたち日本人求道者の生き方のヒントとして--ケノーシス・タペイノース的姿勢をめぐって、井上神父の著作にあらわれた<「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ>を順次見ているところです。

これまでわたしは、「為す愛」と「為さざる愛」という言葉を使って、神父のいう「悲愛」が後者を強調している、とも指摘しました(「風」八二号四五頁他)。

この二つの「愛」は、どちらもわたしたちにとっては本来、右に述べた「応答行為A」の範疇にあるものと言えます。前号で触れたヒルティの「実践的愛」は、この「行為A」のなかで「為す愛」を強調していたのであり、それがわたしには「キリスト者かくあるべし」という「掟」として、息苦しく感じられたのだと思います。こうして、いつのまにやら、「応答行為A」と「条件行為B」が混同されていったのでした。

井上神父においては、「信仰」か「行い」かという「あれかこれか」の問題が、「信即行」という発想によって、乗り越えられ、あるいは少なくとも寛解しているように思われます。先に述べた焦り――キリスト者たるにふさわしい愛の業に励むべし!――のなかにいたわたしが、神父の「信即行」に触れて、直感的に安心感を覚えたのは、〝おまえの「信」はそのまますでに「行」になっているのだよ、何も特別なことをする必要はない、その信一筋でいけばいいのだよ〟そう言われているように思えたからでした。八〇年代半ば、受洗後四、五年のわたしが、「私にとっての聖書」の「信じることが行為」(信即行)という一言に接して、当時の緊張から解放されたのは、このような事情によるものと、いま振り返って思うのです。

二〇 ユダヤ人にはユダヤ人のように

『人はなぜ生きるか』中の未発表エッセイ「私にとっての聖書」で井上神父は、こうして「信じる行為の必要」(一三三頁)を述べた後、前述の『ヨハネによる福音書』の結びの言葉(二〇章三一節)以外に、「イエスはいのちを得るために何が必要かを説明」している箇所として、<善いサマリア人>(『ルカによる福音書』一〇章二五節~三七節)を挙げ、続けて件の<「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ>を置いています。本章冒頭に触れた、わたしの「勘違い?!」の「メモ」は、ここに記されています。

井上神父は当該エッセイのなかで、まず<善いサマリア人>を新改訳聖書から全文引用します。ご存知のとおり、このたとえは、福音書のなかで最も有名な話のひとつであり、これをどう読むかについても数多の研究や著作がなされています。高校「倫理」や「現代社会」の教科書・資料集などにも必ずといっていいほど、取り上げられてもいます。しかしここでは、わたしなりに井上神学の文脈から、読んでみたいと思います。

<善いサマリア人>で「律法の専門家」はイエスに、「永遠のいのち」=救われるためには「何をしたら」いいか聞いてきます。ただしその真の動機は、「イエスをためそうとして」のこと、とルカが解説しています。同じように彼が「では、わたしの隣人とはだれですか」とイエスに聞き返したときは、「自分を正当化しようとして」(岩波訳「自らを義としたいと望んで」)いた、とあります。こうしたことは、もし「律法の専門家」がイエスのアドバイスを聞いたとしても、まともにそれを受け取って何かをする気が、最初からなかった可能性を示唆しています。イエスはそのことを知った上で、以下のたとえを語ったのかもしれません。

しかしいずれにしろ、「律法の専門家」が求めたのは、「永遠のいのちを得るために要求される行為」なのですから、先の行為分類でいえば「条件行為B」ということになります。彼はユダヤ人ですから、こういう質問の仕方すなわち、何か特定のことをする(守る)ことによって救われると発想する――律法主義、行為義認につながる――のは自然です。もちろんイエスもユダヤ人だったわけですが、少なくとも安息日論争(『マルコによる福音書』三章)や清浄問答(同七章)に見られるように、相当に律法を相対視していたことは間違いありません。それゆえに最終的に十字架に追い詰められたといってよいでしょう。

しかしイエスはここで、「律法などどうでもいいものだ」とは言いません。ユダヤ教を超えていながら、ユダヤ人である「律法の専門家」に対しては、ユダヤ教の立場で――「律法には何と書いてあるか。・・・・」(二六節:新共同訳)「それを実行しなさい。」(二八節)などと応答します。ちなみに『ルカによる福音書』一八章の「金持ちの議員」に対しても、イエスは「・・・・という掟をあなたは知っているはずだ。」(二〇節)と答えています。ということは、少なくともこれらのぺリコーぺでは、イエスはユダヤ教的な律法・行為義認の立場から、彼らに答えを提供しているようにみえます。「ユダヤ人にはユダヤ人のように」(『コリントの信徒への手紙一』九章二〇節)とは、パウロ書簡の有名な言葉ですが、井上神父の強調するイエスの、あるいは新約聖書全般にわたっての「対機説法」的性格も含め、ユダヤ人イエスが同じユダヤ人の「律法の専門家」や「金持ちの議員」と問答をすれば、ユダヤ教の文脈のなかで行われるのは自然とも言えます。たとえ、イエスが本当に言いたかったことが別にあったとしても、です。

二一 <善いサマリア人>からの焦り

井上神父はこの中で、「律法の専門家」が「自分にとって隣人とは誰」かと問うたのに対し、イエスが「旅人にとって隣人は誰であったかと問いなおし」たことに注目します(一三四頁)。ここから、「隣人を愛するということは、」だれであれ「いま自分を必要としている人の隣人になるということであり、」この「隣人となるというアガペー悲愛の行為が、永遠のいのちを得るために要求される行為なのだ」と、イエスの考えを読み取っています(一三五頁)。

つまり、「救われるためには自ら隣人となる行為が不可欠だ」と言っているのです。この部分だけを読めば、八〇年代当時のわたしが感じた焦りを助長させる「愛の掟化」(条件行為B)、または「為す愛」のすすめのたとえとして読んでしまう人もいると思います。以前受け持った「倫理」の授業で、生徒に<善いサマリア人>の話を読ませ、感想を書いてもらったところ、この「あるサマリア人」の善良さに感動すると同時に、「とても自分にはできない」という意見が多かったことを思い出します。

縷々述べてきたように、「愛の掟化」に悩まされていた八〇年代のわたしが、このたとえを読んで不安になり、井上神父に教えを請う。『人はなぜ生きるか』に残された前述の、

<ルカ一五と一八章がイエスの眼目(井上TEL)>

とのわたしの「メモ」は、そういう心境のもとで書いたのだと思います。

「永遠のいのち」(救い)を得るために「何をしたらいいか」と聞く「律法の専門家」。「(愛)を実行せよ」というイエス。瀕死の人を懇ろに介抱する心優しい「あるサマリア人」。このように自ら「隣人となれ」と命じるイエス。そして井上神父自身もこのぺリコーぺを、

<隣人となるという悲愛の行為が、永遠のいのちを得るために要求される行為なのだ、というイエスの説明である>(一三五頁)

と受け取っています。それは、直前にあった「信即行」の発想と矛盾するように思われました。

「律法の専門家」とイエスのやり取りは、すべからく「条件行為B」を前提としてなされている、ということになります。わたしはまたまた、「山上の垂訓」のような厳しいイエスの「掟」に思い至るのでした。「救われたければ、おまえも行って同じようにせよ」と言われているように思うと、再びわたしは、「そんなことは無理です。でも何かしなければ・・・・いやできない」そういう焦りが戻ってくるように感じたのでした。

二二 愛は自我行為ではない

繰り返しになりますが、かつて井上神父から「日本人は倫理に弱い」と言われたように、キリスト教が日本に馴染まない最大の原因が倫理・道徳の強調にある、あるいは少なくとも、そのように見えてしまうから、というのがわたしの考えです。

<善いサマリア人>では、「永遠のいのちを得るために」、たしかに「隣人となるというアガペー悲愛の行為が要求」されています。それはイエスが言ったように最大の「掟」(『マルコによる福音書』一二章二八~三一節)には違いないのですが、だからといって、〝では自分もさっそく出て行って、困っている人を見つけ、隣人になろう、ならなければ!〟というような、自我が前に出て、律法主義的に――「条件行為B」としての「為す愛」を促すものではないのです。このことは本稿第三部(第二十二回以降)で、井上神父の<「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ>解釈から見えてきたことを振り返れば明らかです。

ここではそれを、神父の考える「救い」と「行い」そして「信仰」との関係をめぐって、当該「私にとっての聖書」以外に、本書『人はなぜ生きるか』に収録されている講演録・エッセイから少しく読み取ってみたいと思います。

<自我を「ひかえる」自己相対化>

<私たちの人生というのは、私たちが何かをし、それによって私たち自身を表現するものではなくて、神が――神という言葉がお嫌いな方は、私たちをささえている大自然の生命と受けとめてくださっても結構なのですが――私たちの生涯において己れ自身を表現させるものだ、ということなのであります。>(一五頁「宗教のこころ」希望がなくて生きられるか)

――わたしたちの人生の主役=主体は、わたしたち自身ではなく、アッバにある、と自覚することが、学問や芸術や道徳とも異なる「宗教の世界の核心」だということ。この言葉は直接的には、わたしたちが老病死の苦しみに出会ったときを想定して語られていますが、たとえどんなに善い「行い」であっても、がむしゃらに自我が前に出ることが抑えられ、「ひかえる」姿勢――「為さざる愛」が促されています。

<自覚行為としての祈りの必要>

<自分が主である世界から従になる世界に転換するのには、どうしても〝行〟ということが必要です。型に入るということはそういうことなのです。祈りにはいろいろなかたちがあるかもしれませんが、「祈り」というのも一つの行であります。>(二七頁「同」視点の転換のこと)

――前項のように「あちら様が主になって自分が従になる」「逆主体的段階」(一六頁)に入るためには「祈り」という「行」が「必要」なのだということ。すなわち、前述の救いに関する三つの行為分類でいえば、「信仰行為C」の必要が主張されているということです。

ただし井上神父は、

<祈りというのは、己れが従であることを、あらためてあちらさまの前に自覚する行為に他ならないからです。>(四八頁「日本人の宗教心」神聖な無)

とも述べています。祈りという「行為」が必要なのは、己れが従=脇役であることの「自覚」のためだということ。これは救いのための「行い」と「信仰」という、今問題にしている文脈にとって、見逃せない重要な指摘です。つまり、祈りとしての「信仰行為C」は、律法主義的な「条件行為B」のように、自力的に神の恵みを引き出そうとするための「必要」という意味で為されるものではないということです。

前号最後の段落(四〇頁以下)では、『パウロを語る』の一節から、井上神父の考える「信仰」と「行い」の関係を検証しました。そして「救済と行為」の流れを整理し、

<(神の)恵み→行為C→救済→行為A>

という結論を得たのでした。神の悲愛、ゆるしのまなざしは本来、太陽の光や慈雨のように、いつでもどこでもわたしたちに降り注いでいるものなのだ(『マタイによる福音書』五章四五節)、それこそがイエスが何としてでもわたしたちに伝えたかった福音でした。そういう意味では、わたしたちにはそれで十分であり、アッバの悲愛を引き出すために、それ以上何の「行い」も「祈り」も必要ないのです。しかしエゴイズム(自己中心)に汚れているわたしたちの心は曇った鏡のように、往々にしてアッバの悲愛を映し出すことができない。アッバの無条件のゆるしを素直に受け止め、受け入れることができないのです。そこに「祈り」「帰依」、少なくとも「尻を向けない」という、己れが従であることを「自覚する行為」が必要になってくる、ということです。「信仰行為C」とはそういうわたしたち自身のためにする「自覚行為」ということになりましょう。

<無心からおのずと溢れ出る悲愛>

そして、応答行為Aへとつながります。

三番目の講演録「日本の私とヨーロッパのキリスト教」は、本書のなかで最も早い時期、一九七七年のものですが、当時――処女作『日本とイエスの顔』出版直後の井上神父が、自らの「生き方」として考えていることを二つあげています。

一つは、日本のキリスト教を考える場合、「自然への親近感」や「聖霊」をとらえなおして、わたしたち一人一人が「自分の心情で」とらえたイエスの福音を、「自分の言葉で」語っていくということ。もう一つは、仏教でいう「無我」や「無心」ということが、イエスの福音においても非常に大切だ、ということです。

そしてこの「無心」「無我」に関連付けて、キリスト教の「愛」にアプローチします。すなわち、

<キリスト教でふつうに言う〝愛〟などというのも、イエスの姿勢などをじっと見ていますと、ふつうにキリスト教でいわれているものなどよりも、もっとずっと深い所に根ざしているような気がいたします。>(六一~六二頁)

と前置きしてから、わたしが<一九八五年十二月のTさん宛の手紙>(「風」八八号五二頁)に引用した部分を続けています。その主旨は、「悲愛」は「無我とか無心」と密接に関係し、そこから「おのずとあふれでてくる」隣人愛は、「後ろ鉢巻」の「努力と頑張りで」自分が「積極的に前にでていって遂行する」ものではない、ということです。つまり、「隣人愛」は「最大の掟」ではあるけれど、「他の掟」とはちがって、「無心・無我」から「応答行為A」として自然に湧き出てくるものなのだ、というのです。

すでにわたしたちは、神父が「新約聖書は救いのための実践指導書」であり、イエスを凝視する「祈り」=「行」の必要性を説いていることをも見ました(「風」第八五号二一頁以下)。この「無心・無我」は、「行」としての「祈り」すなわち「信仰行為C」に相関し、さらにケノーシス(自己無化)をめざす自己相対化、「南無アッバ」の道と方向を一にすることは明らかです。なぜならば、

<信じるということは、目をつぶってお委せしてついていくことであり、私たちの判断をも神にお預けする行為>(一三三頁)

だからです。

<第一に為すべきことは>

そして直後、この「隣人愛」――「悲愛」の「性格」を説明するために、ここでも件の<善いサマリア人>を引いています。もっともこちらの講演の方が、先の未発表エッセイより八年早いのですが、井上神父の着眼点・強調点は同じです。すなわち、「隣人を愛するとは、今自分を必要としている人の隣人となるということ」であり、その場合、「中心点を、自分から相手にうつして」いく、「相手の思いを中心にすえ」ること――思いやりが大切だ、ということです。

このことから、

<悲愛とは、その(1)人の思い哀しみ苦しみを自分に映しとり、感じとるところから(2)おのずから湧きでる行為である>(六三頁、(1)(2)は平田付記)

と定義しています。隣人愛=「隣人となる」ためには、「中心点を、自分から相手に移す」=自己相対化がはかられなければならない。そうしてはじめて(1)が可能となり、さらに(2)が「おのずから」続くという発想です。

大事なことは、井上神父の強調点が「自己相対化」及び(1)にあるということであり、あくまで(1)→(2)という順序・流れであって、(1)をスキップして表に現れる(2)を焦ってはならない、ということです。

<相手の思いを中心にすえず、ただ、そうだ、キリスト者は愛さなければいけない、などといってやたらに親切をしてみても、結果はしばしば、小さな親切、大きな迷惑ということにもなりかねないことになりましょう。>(同)

ここには、八〇年代のわたしのあの「焦り」がそのまま指摘されているように思います。

自己相対化から(1)への道――そこには「無我、無心に大へん近い」「柔らかな澄んだ心」が必要です。しかしエゴイズムに汚れている自分にはそれがありません。したがって、まず為すべきことは、「そういう心が欠けている自分、という自覚」、「エゴイズムに汚れている自分への反省」――

<イエスの水晶のように透明な、澄んだ心のまえで、己れの心の汚さを反省するという基本的な姿勢>(六四頁)

をとるということです。(つづく)

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