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日本人にわかるキリスト教を求めて

26May2012+011_convert_20120623181132_20120623222548.jpg井上洋治神父は、遠藤周作氏と共に、日本人の感性で正直に受けとめられるキリスト教を一生をかけて模索し、1986年「風の家」をはじめました。このサイトでは、「風の家」運動を引き継ぐ平田栄一が「求道俳句」ほか、日本人キリスト者の道を模索する試みを紹介していきます。お問い合わせ 略歴 著書

第198号-2012年9月発行*日本人の心の琴線にふれるイエスの顔を求め、福音を生きる  

会員作品とエッセイ(*主宰コメント)

秦野市  長谷川末子

死にたいと/つぶやいた夫/体調不良/食欲減退/よろめく夫/何を耐え/口にしないのか/救急車で入院/多くの人々の祈りと慰め/手厚い介護と奉仕/窓辺に咲く大輪の紫陽花/月に二度父を見舞った息子達/七月十三日召される/通夜告別式納骨式/牧師先生兄弟姉妹が助けて下さる/秋雨の早朝虫の音/神様の憐れみと烏の目覚めと

*毎号、心を打つ詩や俳句をお送りくださる末子さん。前回めずらしく欠稿されたので、もしや何かあったのでは?とちらっと不安が過りました。長く連れ添われたご主人の天国での新生をお祈りします。

生きるも死にゆくも容易ではない――死にたくなることもありましょう。何のための苦しみ・・・・? でも、そんなときこそ、介護や奉仕の温もりが身に染みる。虫や烏の声、雨音の優しさが聞こえてくる。そしてイエス様の十字架のお姿が見えてくる――南無アッバ。


高知市  赤松久子

蜘蛛の子を外に逃がして南無アッバ
日盛りやサマリアの女主にまみえ
ニコデモも主に惹かれしや夜の涼
片陰に寝そべる猫よ南無アッバ
さりげなき囲の外の羊かな


イエスをじっと見つめていると/イエスがだんだん透明になって/そのむこうに神さまが見えてくる/と、神父さまはおっしゃった/南無アッバ(ヨハネ一四・九より)

*②③どちらも『ヨハネによる福音書』からの情景が、有季定型の力によってくっきり浮かび上がる。②福音書に「正午ごろ」(四・六)とあるのを、「日盛り」と置き換えただけだが、それによって「水」をめぐる二人のやりとりに人間味が増強され、生き生きとしてくる。③これも福音書には、ニコデモがイエスのもとに来たのは「ある夜」(三・二)となっているだけだが、それを日本的な夏の「夜の涼」と小説的に想像することで、二人の会話が身近に感じられる。


三浦市  井口萬里子

十字架の重荷首根にかかるときわが信仰の偽りと知る
キリストのわが荷軽しに涙落つ比ぶべきなき小さき荷負ひて


*ルターは「十字架の神学」という。神学者・青野太潮氏によると、イエスは、その弱さゆえ十字架に架けられ、今も架けられしままのキリスト――私たちもその弱さと一体となるとき、逆説的に救われる。


稲城市  石川れい子

白百合やいのり捧ぐる尼二人
天道虫いつとき我の胸飾り
八月や平和をいのり祈り継ぐ
八十路来てやうやく語る原爆忌
爆竹やマリアの八月十五日


*②何気ない、かわいらしい風景ですが、当の「天道虫」は、そのような人様のお役に立っているという自覚はない。モームの「ペルシア絨毯のたとえ」を思い出します。④今は語り部二世も誕生したようです。


八王子市  フランシスカ井上

炎天のバス停に佇ち南無アッバ
知人の訃ことさら蝉の声高く
聞き上手心たいらにして帰り
夕涼み猛暑を抜けた顔が寄り


*②一人の死がいかに大きなものをこの世に残していくか。有名無名無関係に、否むしろ無名であるがゆえにその遺産は大きいかもしれない。イエスの生涯の逆説を思う。


長崎市  片岡惇子

合歓の花溢る優しさ両の掌に
蛍狩透けゆくもののいとおしき
蝉時雨上座下座も風通る
郷愁や青きトマトにかぶり付く
大いなる地にじゃがいもの白き花


*③アッバの絶対的平等「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ五・四五)を連想します。


豊田市 佐藤淡丘

あて貴やかに教会照らす大西日
新涼や月残りぬる牧の朝
夕蝉の平均律や風誘ふ
爽やかに話しかけたり糸電話
新涼の語尾の美くし挨拶す


天の父なる神様は、とても素晴らしい時間を下さいます。それは〝あかとき〟です。ご存知のように日の出前の数時間を言い、別の名を〝かわたれどき〟ともいいます。

 樹々は目覚め、土は柔らかく、水は平らに光り、遠く山々は碧く聳え立ちます。このような微妙な光の中にわが身を入れ、私は秘密の場所、「会神の丘」に登り、南無アッバを三唱します。そして心に誓います。〝ああ、至福なり〟と。一日のはじまりを、至福ではじめた日は、敗北のように見えても勝利であることは疑いないように思います。

 南無アッバ・南無アッバ・南無アッバ。

*「敗北のように見えても勝利であることは疑いない」この信仰が「十字架の神学」――イエスの最期の叫び「神よ、なぜ私を見捨てたのですか。」それを「神の子なり」と見抜いた異邦人ローマ兵。


横浜市  服部薫

人は皆神のうつしみそれぞれに大いなる命抱えて生きる
生きてるのは母親でなくキリストとふと思われたほんの一瞬


*ガラテヤ書二章二〇節「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」初投稿ありがとうございます。


品川区  松永弘之

夏草の匂ひ遥けし塔の上
幾千の花火上がりて兵士逝く
悲しみを祈りに変えて原爆忌
げ夏あんご安居の明けてマリアの被昇天


*③「悲しみを祈りに変え」るものは何か。自力のようでいてそうではない。アッバに委ねる=南無アッバの心は、やはりアッバから来る。


蓮田市  平田栄一

マルタは為すマリアは為さざる夫々の愛もてイエスをもてなし給う
克明なる三十年前不明なる昨日の記憶 母は饒舌



寄贈誌より

「日矢」五七〇―一号  新堀邦司

濃あぢさゐ雨の墓参となりにけり
桃の花農夫に道を尋ねけり



「こみち」二五三号  練馬区 魚住るみ子

羽化とげしもんしろてふや輝き舞ふ
切り張りの紙の白さや端居かな



二水会『驢馬』カトリック六甲教会   植田種

国にも水仙ありと立ち止まり
炎天下嘆きの壁にひたひよせ



おしらせ:余白

○以前お知らせしたとおり、本紙抜粋を井上神父主宰『風』誌「アッバ讃句コーナー」に載せています。購読されていない方には、部分コピーをお送りしますので、ご希望の方はご一報ください(無料)。

○本誌隔月発行にともない、原稿締切日が偶数月十日に変わりました。次回は十月十日締切り、以下、十二月十日、来年二月十日、四月十日・・・・というふうになります。よろしくお願い致します。
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――「余白の風」入会案内――
*どなたでも参加できます。詳しくはサイドバーの余白メールからお問い合わせください。

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