「南無アッバ」を生きる ホーム » 南無アッバの集い&四谷講座 »23-12 「余白の風」196号に載せた要約のつづき全部です

日本人にわかるキリスト教を求めて

26May2012+011_convert_20120623181132_20120623222548.jpg井上洋治神父は、遠藤周作氏と共に、日本人の感性で正直に受けとめられるキリスト教を一生をかけて模索し、1986年「風の家」をはじめました。このサイトでは、「風の家」運動を引き継ぐ平田栄一が「求道俳句」ほか、日本人キリスト者の道を模索する試みを紹介していきます。お問い合わせ 略歴 著書

23-12 「余白の風」196号に載せた要約のつづき全部です  

処女作『日本とイエスの顔』の第一章は「ことばといのち」。

そこでは、講座でもやった「ゼノンの逆理」――アキレスと亀の競争――バレリーナの躍動感はスナップの細切れ写真ではわからない、という――理性知と体験知の対比――そのすぐ後に、「理性の言葉や概念」は各民族によって、切り口が違うといっています。

言葉で説明することの便利と限界ということ。個々の「言葉」を直訳・逐語的に一対一で対応させても伝わらない。

井上神父は、日本人にわかる「言葉」として翻訳する。例:「愛」→「悲愛」、「聖霊」→「おみ風さま」など。

しかし「贖罪」(罪を贖う)「犠牲」(罪人のために死んだ)などはめったに口にしない。これらをどう表すか。

二九頁に引用した「至らなさ」というのは井上神父のいう罪の要素の一つ。

また、私は『すべてはアッバの御手に』で井上神父の言う罪を、「申し訳なさ」「エゴイズム」とも分析した。

こういういくつかの要素、エレメントをもったニュアンスが神父の「罪」意識の内容です。

最近、日本語への翻訳の試みとしては山浦玄嗣さんの「ケセン語訳聖書」などもあります。

心に残ることば *余白

V・E・フランクル『それでも人生にイエスと言う』より

「人間の不完全性にこそ意味がある」(52)

「それぞれ違った仕方で、『自分なりに』不完全なのだ」(53)

「ひとりひとりの人間が、なんらかの仕方でかけがえがなく、代替不可能で、代わりのない存在になるのです。」(53~54)

*不完全性は人の代替不可能性を示唆する。また、パウロのキリストの体論を想起させる。

次回南無アッバの集い&平田講座 於:四谷ニコラバレ
6/23(土)

category: 南無アッバの集い&四谷講座

tb: 0   cm: 0

コメント

コメントの投稿

Secret

トラックバック

トラックバックURL
→http://yohaku5.blog6.fc2.com/tb.php/2126-a38b402b
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

講座・南無アッバの集い

求道詩歌誌「余白の風」

最後の南無アッバミサ

カテゴリ

全記事表示リンク

▲ Pagetop