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(30)-20 キリスト教の母性原理を捉えなおす  

わたしに語った通り神父は、修道時代のリヨンでの回心を促した「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえを紹介しようと、当該未発表エッセイを『人はなぜ生きるか』に収録したのでした(本誌第八七号三九頁)。

しかしその動機の背景には、右に述べたような母性的キリスト教への確信が強く働いていたのではないか、とわたしは推測するのです。

ということは、かの<たとえ>を母性原理のなかで神父が捉え直していった、ということをも意味するのではないでしょうか。


遠藤-井上師の「キリスト教の仕立て直し」のキーワードは、「母性原理」という言葉に要約されるでしょう。

(但し、この場合の「母性」は、現実の個々の不完全な母親のイメージ=現代では、幼児虐待などをイメージしてしまうケースもあろう=ではなく、人を裁く前に受容する「やさしさ・包容力」の象徴として)

テレジアにひかれ、リオンでの<たとえ>による回心。

<たとえ>は、人を裁かず、アッバに頭を下げる大切さを教える。

この点が、明確に「母性」の要素として捉えなおされた。
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