「南無アッバ」を生きる ホーム » 連載「井上神父の言葉に出会う」 »(30)-14 井上洋治著『人はなぜ生きるか』における<「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ>をめぐって ( 『風』第89号 )

(30)-14 井上洋治著『人はなぜ生きるか』における<「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ>をめぐって ( 『風』第89号 )  

<一九五〇年頃から今度は「編集史研究」が盛んになってきた。

編集史研究というのは、その(福音書中の)伝承は生活の座――礼拝、説教、洗礼式など――で教会が伝えて来たかもしれないが、マルコが何の目的で編集したのか。

またマタイは何故『マルコによる福音書』を変える必要があったか、ルカはどうして変える必要があったかという研究である。>

(「風」第八七号「キリスト教概説」講義、一八頁)

福音書に伝えられたイエスに関する様々な伝承は、わたしたちが「伝記」という場合の、いわゆる客観的なイエス像ではなく、当時の教会の必要に応じた「生活の座」の中で伝えられてきたものである。

このことを明確にしたのがブルトマンを代表とする「様式史研究」です。


1920年代の様式史から編集史という研究の流れは、今も大きなうねりと問題提起を、イエス伝研究史に投げかけている。

イエスの伝記的記述は不可能、とされたにもかかわらず、特に80年代以降、今も様々なイエス像が探られている。

それらに対する賛否はともかく、「史的イエス探求は不可能です」「ああそうですか」とは、おいそれと引き下がれない、私たちの渇望があることだけは確かであろう。
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category: 連載「井上神父の言葉に出会う」

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コメント

いつも楽しいブログをありがとうございます

余白先生こんにちは。
北陸は例年以上の豪雪です。
おまけに地震も。

いつも楽しく拝見しております。
史的イエスの探求、興味ありますね。
素人考えと笑われるかもしれませんが、歴史的に実在したイエスさまのお教え、ご主張は、きっと至ってシンプルだったのでは、と思います。
何しろ、組織、建前でがんじがらめになっていた当時のユダヤ教支配層に盾をついた一番のポイントが、その点だったわけですから。
イエスさまの目標は、すべての人々が、自らの人生を前向きに受容し、常に希望と喜びを持って、人生の最後の日まで過ごせるようにすること。
人生における苦難は、自らの苦難に意義を見いだせないことと、その苦難を共に担ってもらえないこととだと思います。
人生のその時その時で、表に現れてくる苦難のかたちは表面的には違いますが、突き詰めれば、その2点に集約されてきます。
先回の繰り返しになりますが、この2点を実現するためには、「受容する神」の想定が必須となってくるわけです。
どんな苦難も、大好きなアッバのプレゼント。
人生の総監督はアッバ、あくまであちら様が主役、そう思い至った時、人生のすべてがストンと落ちるのかもしれません。
この境地がとりもなおさず「南無アッバ」、井上神父さまのライフワークの終着点です。
この思考様式が、イエスさまがコペルニクス的転回の末、私たちに残して下さったいわば「万能薬」。
その現実的使用法を、当時の民衆にいかに伝えようかと孤軍奮闘された記録が、福音書なのではと思います。
しかし、この万能薬を、自らの日々の生活でどのように応用するかは、やはり若干の準備学習が必要です。
その準備学習が、日々の信仰の学びであり、いざというときのお薬箱の用意のようなものでしょう。
人生の時間を限りなく微分し、その瞬間瞬間で、アッバのご指示を自問自答することが、すなわち祈りであり、その結果行われる行動も、ある意味では祈りです。
前者はいわば「静の祈り」、後者は「動の祈り」とでも言いましょうか。
そのようにして時を重ねることで、イエスさまの「神の国」がそれぞれの心の中に芽生えてくるのだと思います。

寒い毎日、ご自愛下さい。

mitakaforest #XM8vAG0k | URL
2012/02/09 16:16 | edit

勉強になります

mitakaforestさん、ありがとうございます。

>北陸は例年以上の豪雪です。
おまけに地震も。

ニュースで聞いています。どうぞご自愛ください。

>歴史的に実在したイエスさまのお教え、ご主張は、きっと至ってシンプルだったのでは、と思います。

同感です。私の視点は、イエス様があれほど魅力を感じさせたのは、学者や偉い人ではなく、ほんとうに「ふつうの」一般民衆がわかる言葉で語ったからだ、というものです。

小難しい神学などはない。。。。
ところが矛盾なんでしょうが、その簡潔な信仰が、もうわかりにくくなってしまって、
そのために、ちょっと学問が必要にも、なってしまった。。。

>イエスさまの目標は、すべての人々が、自らの人生を前向きに受容し、常に希望と喜びを持って、人生の最後の日まで過ごせるようにすること。

まったくそう思います。

>人生における苦難は、自らの苦難に意義を見いだせないことと、その苦難を共に担ってもらえないこととだと思います。

苦難の隠された意味、そして孤独の問題。

>2点を実現するためには、「受容する神」の想定が必須となってくるわけです。

「南無アッバ」の心をお与えください、と祈ります。

>いざというときのお薬箱の用意のようなものでしょう。

絶妙のたとえです。「お薬・・・・」

>行動も、ある意味では祈りです。

祈り=行動。この視点もアーメンです。

ありがとうございます。
こちらも勉強になります。
南無アッバ

余白 #oBO5MkqQ | URL
2012/02/09 19:57 | edit

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