「南無アッバ」を生きる ホーム » スポンサー広告 » 連載「井上神父の言葉に出会う」 »(30)-13 井上洋治著『人はなぜ生きるか』における<「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ>をめぐって ( 『風』第89号 )

日本人にわかるキリスト教を求めて

26May2012+011_convert_20120623181132_20120623222548.jpg井上洋治神父は、遠藤周作氏と共に、日本人の感性で正直に受けとめられるキリスト教を一生をかけて模索し、1986年「風の家」をはじめました。このサイトでは、「風の家」運動を引き継ぐ平田栄一が「求道俳句」ほか、日本人キリスト者の道を模索する試みを紹介していきます。お問い合わせ 略歴 著書

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(30)-13 井上洋治著『人はなぜ生きるか』における<「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ>をめぐって ( 『風』第89号 )  

一一 編集史研究による確信

さらに「あとがき」では、
<この考えは、本書『日本とイエスの顔』ではまだ明確なかたちをとっていないが、それ以後聖書の編集史研究の書に多く接するにつれて、ますます私の確信となってきている>(二五四頁)

と付け加えています。

一九五〇年代から、先に触れたH・コンツェルマンら、ブルトマンの弟子と目される人々を中心とした「編集史研究」により、福音書記者の編集意図と伝承とを区別していく方法が検討されるようになります。井上神父はこの研究成果に接することによって、イエスの母性的神観への確信を強くしていったというのです。


イエスが神を「アッバ」(おとうちゃん)と呼べる方として確信していった、ということを井上神父が「確信」していくまでの道のりは、険しいものでした。

それは直観や感性を支える学問的な裏づけをも要求されることでした。
そのためには、井上神父は古今東西、また分野や教派をこえて広く学問的研究成果を学んでいきます。

category: 連載「井上神父の言葉に出会う」

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コメント

井上神父さまに感謝!

いつも楽しいブログをありがとうございます。

最高学府を極められ、ヨーロッパでのご研鑽も積まれた、いわばカトリック界のホープとして司祭の道を歩んでおられた井上神父さまが、敢えてお選びになったライフワークは「キリスト教の仕立て直し」。
このとてつもなく大きなテーマのゆえに、神父さまの司祭人生の道のりは、いばらの道に一変したことでしょう。
しかし、キリスト教の根本にかかわるこの課題に、ご立派なご経歴をお持ちの正当派司祭であられる井上神父さまが、充分な文献的考察を根拠にお取り組み下さったからこそ、その意義は大きいと思います。
キリスト教の学びにおいて1番大切なことは、イエスさまのお心をそのまま受け入れること。
私たちの日々の行動ひとつひとつにおいて、「イエスさまならこんなときどんなアドバイスを下さるだろう?」と自問することであると思います。
これがすなわち祈りという行為なのだと思いますが。
イエスさまの時代のユダヤ教の教えは、人々の心に安寧をもたらすことはできていませんでした。
律法にがんじがらめに縛られ、いわば「たたりを恐れる」的に、「裁きの神」の前に人々は縮こまり、それに付け入るように、宗教界は幅をきかせていたのだと思います。
「このような神と人の関係では、心の安らぎもなければ、元気な明日への一歩も難しい。発想の転換の時だ!」と、イエスさまの心には、むくむくと新しい神と人の関係の構築のアイディアが浮かんできたのでしょう。
それはユダヤ教の発展ではなく、むしろ不連続性を持った超克であり、ここに「受け入れともに歩む神」のイメージが浮かび上がります。
人生に於けるいちばんの不幸は、ともに悩み、苦しみを分かちてくれる人がいないことと、自らの苦難に意義を見出せないことです。
イエスさまは、この神像を通して、病める人、困難のどん底にある人に対して、心から寄り添い、ともに荷を負ってあげようという温かなまなざしを私たちに注ぎ、また現実を受け入れる際の発想の転換の知恵を与えてくださったのだと思います。
同じ現実を受容するにも、ともに歩んで下さる大好きな神さまの温かなご配慮だと信じて新たな一歩を踏み出すことができれば、どんなにか荷は軽くなることでしょ う。
そのためにまず必要であったことは、「受容する神」の概念の構築でした。
神さまは、まずあるがままを受け容れ、ともに苦しみ、ともに歩んで下さる・・・。
歴史上のイエスさまのなさったお働きは、きっとそのような力強いメッセージを私たちに伝えんがための行動だったのではと考えます。
キリスト教界内のその後のいろいろな修飾事項はありますが、1番の基本はこの「受容する神」の概念。
そこにこそ、ユダヤ教とは違うイエスさまのオリジナリティーがあります。
この1番の神髄を、的確な学問的裏付けをもって、世に問うてくださった井上神父さまのご業績のスケールの大きさに、改めて感謝の気持ちでいっぱいです。
余白先生、これからもよろしくお願いいたします。

mitakaforest #pKCONESw | URL
2012/02/03 21:28 | edit

返信が遅れまして、すみません

mitakaforestさん、
いつも丁寧にお読み戴き、感謝です。

>私たちの日々の行動ひとつひとつにおいて、「イエスさまならこんなときどんなアドバイスを下さるだろう?」と自問することであると思います。
これがすなわち祈りという行為なのだと思います<

いまこの連載をやっていて、まさにこの「祈りという行為」の発見は、私にとって、衝撃とも、天啓ともいえるものでした。
井上師の慧眼は、ひとつに、この信仰=行為という、しばしば対立的にとらえられる宗教体験を、結びつけたところにあると思います。

>基本はこの「受容する神」の概念<
そして、その思想の根底にあるのが、受容の神=アッバの再発見ということですね。
今後ともよろしくお願いいたします。南無アッバ

余白 #oBO5MkqQ | URL
2012/02/04 15:21 | edit

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