「南無アッバ」を生きる ホーム » 連載「井上神父の言葉に出会う」 »(30)-9 『風』第89号 井上洋治著『人はなぜ生きるか』における<「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ>をめぐって

(30)-9 『風』第89号 井上洋治著『人はなぜ生きるか』における<「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ>をめぐって   

こうした内村や新渡戸の例は、アッバの福音の本質とは別のところで、国家政策の「壁」にぶち当たった日本のキリスト教が、しだいにその倫理的側面を強調し、道徳化していった様子を示しています。

そして山折氏は、この項の結論として、次のように述べます。

<キリスト教は、倫理・道徳として、あるいは・教育・文学として日本の社会に浸透していった。けれども、現実的な勢力としては大きな広がりを見せなかったため、日本の社会に根本的な変化を生むことはなかった。

また、社会批判の役割を十分に果たすこともなかった。>

(同書、二八八頁)


イエスの福音が、一般的な道徳や教育上の徳目として社会に解消されてしまった、という見方もできよう。

こうなると、イエスの固有性、聖書の福音の固有性=「ここはイエスでなければだめなのだ」という、必要性すらなくなる危険があった。
関連記事


category: 連載「井上神父の言葉に出会う」

tb: 0   cm: 2

コメント

倫理、道徳を越えた宗教の存在意義

いつもありがとうございます。
余白先生の講座にお伺いしたい気持ちでいっぱいです。

倫理、道徳を越えたイエスさまのスケールの大きさを考えるとき、まず心に浮かぶのが、あの姦淫の女の場面です。

『わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。 今からは決して罪を犯してはなりません。』

人間だれもが、まっとうに人生を生き切りたい、そう思っています。
しかし、いつでもそれが叶うとはかぎりません。
「いけない、恥ずかしい」そう心で叫びながらも、生きるためにそうせざるを得ない悲しさを背負うこともあります。
そんなときにふと心を目覚めさせてくれるのは、非難や中傷ではなく、まずその哀しみをそのまま受け止めていただくこと、そして「わかってるよ、大変だったね。」という受容の一言だと思います。
世のだれ1人としてわかってくれずとも、空を仰ぎ見るとき、そこにアッバの温かな赦しのまなざしを感じることができる・・・そして新しい一歩を踏み出す勇気をいただける・・・これこそが宗教の神髄です。
もちろんイエスさまは倫理、道徳を不要と考えられたのではありません。
そうしたくてもそうできず、不本意な人生を送らざるを得ない、そのような状況においても、希望を捨てずにリセットする勇気を私たちにお与え下さったのだと思います。
これこそが倫理、道徳とは違う宗教の存在意義なのだと思います。
今後ともよろしくお願いいたします。

mitakaforest #- | URL
2012/01/30 21:13 | edit

mitakaforestさん、いつもありがとうございます。

寒い日が続きますね。
それでも、先日、井上師と話しましたが、お体はお元気です。
>空を仰ぎ見るとき、そこにアッバの温かな赦しのまなざしを感じることができる・・・そして新しい一歩を踏み出す勇気をいただける・・・これこそが宗教の神髄です。<
世の中を見ると、ホント暗いニュースが目白押し。なかなか前向きに考えられない。
そんなとき、「空を見上げる」と、無条件に心が和む。不思議なものだとつくづく思います。
「空の鳥を見よ」とおっしゃったイエス様の御心は、倫理・道徳をこえた彼方にあったのではないか、などと思っています。

余白 #oBO5MkqQ | URL
2012/01/31 10:43 | edit

コメントの投稿

Secret

トラックバック

トラックバックURL
→http://yohaku5.blog6.fc2.com/tb.php/1986-28acc47e
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

日本人にわかるキリスト教を求めて

南無アッバの集い&平田講座

求道詩歌誌「余白の風」

最後の南無アッバミサ

全記事表示リンク

リンク

検索フォーム

▲ Pagetop