「南無アッバ」を生きる ホーム » 連載「井上神父の言葉に出会う」 »(30)-8 『風』第89号 井上洋治著『人はなぜ生きるか』における<「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ>をめぐって

(30)-8 『風』第89号 井上洋治著『人はなぜ生きるか』における<「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ>をめぐって   

また、内村と同じ札幌農学校出でクエーカー派の信仰をもつ新渡戸稲造については、次のように言います。

<新渡戸はキリスト教の信仰をもっていたにもかかわらず、それを積極的に布教しようとは考えなかった。

おそらく、内村が直面した壁を意識してのことだろう。彼が選択したのは、信仰としてのキリスト教をそのまま伝えるかわりに、キリスト教の精神を修養という形に変化させ、それを伝える試みであった。

新渡戸がアメリカ留学中に英文で執筆した『武士道』にしても、ベルギーの法学者、ラブレーから、日本の学校では宗教なしにどうやって道徳を教えるのかと問われ、即答できなかったのが執筆のきっかけだった。

新渡戸は、侍の道徳規範を武士道という形で示すことで、ラブレーの質問に答えようとしたのである。>

(同書、二八五頁)


キリスト教を、「修養」「道徳」として教えようとしたことが、知識階級や学校教育としては受け入れられたが、日本人には、ラディカルな福音の本質を見失わせる結果となったのではないか。
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