「南無アッバ」を生きる ホーム » スポンサー広告 » 連載「井上神父の言葉に出会う」 »(30)-5 『風』第89号 井上洋治著『人はなぜ生きるか』における<「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ>をめぐって

日本人にわかるキリスト教を求めて

26May2012+011_convert_20120623181132_20120623222548.jpg井上洋治神父は、遠藤周作氏と共に、日本人の感性で正直に受けとめられるキリスト教を一生をかけて模索し、1986年「風の家」をはじめました。このサイトでは、「風の家」運動を引き継ぐ平田栄一が「求道俳句」ほか、日本人キリスト者の道を模索する試みを紹介していきます。お問い合わせ 略歴 著書

スポンサーサイト  

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

category: スポンサー広告

tb: --   cm: --

(30)-5 『風』第89号 井上洋治著『人はなぜ生きるか』における<「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ>をめぐって  

一〇 テレジアからテレジアへ

この「最大の問題」に対する回答の中で、井上神父はまず、本章「六 悩みの歳月」でも取り上げたエッセイ「リジューのテレーズをめぐって」(『風のなかの想い』所収)を書いたときはじめて、自分がテレーズに惹かれた理由がわかったといいます。

それは、井上青年が空しい青春時代に必死に求めていたものが、

<母性原理の強い神の、慈しみ深く暖かな悲愛の御手>(二五〇頁)

であり、比較的父性原理の強い西欧キリスト教のなかにあって、

<まさにテレーズは、その全生涯で母性原理の強い神の憐れみを讃えあげた、極めて稀な人物だった>(同)

ということです。


井上神父はマリア信仰(崇敬)について語ることはほとんどない。
それは、その否定ではなく、イエスのなかにマリア的なものを見ている、ということです。

それにしても、日本的なものを求めて、その開眼が、テレジアという、西欧を一歩も出たことのない少女に触発された、ということは、興味深い。

category: 連載「井上神父の言葉に出会う」

tb: 0   cm: 0

コメント

コメントの投稿

Secret

トラックバック

トラックバックURL
→http://yohaku5.blog6.fc2.com/tb.php/1981-4088824f
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

講座・南無アッバの集い

求道詩歌誌「余白の風」

最後の南無アッバミサ

カテゴリ

全記事表示リンク

▲ Pagetop

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。