「南無アッバ」を生きる ホーム » スポンサー広告 » 連載「井上神父の言葉に出会う」 »(30)-1 『風』第89号 井上洋治著『人はなぜ生きるか』における<「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ>をめぐって

日本人にわかるキリスト教を求めて

26May2012+011_convert_20120623181132_20120623222548.jpg井上洋治神父は、遠藤周作氏と共に、日本人の感性で正直に受けとめられるキリスト教を一生をかけて模索し、1986年「風の家」をはじめました。このサイトでは、「風の家」運動を引き継ぐ平田栄一が「求道俳句」ほか、日本人キリスト者の道を模索する試みを紹介していきます。お問い合わせ 略歴 著書

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(30)-1 『風』第89号 井上洋治著『人はなぜ生きるか』における<「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ>をめぐって  

本題、『人はなぜ生きるか』の<たとえ>(『ルカによる福音書』一八章九~一四節)に戻ります。

すでに指摘したように、この<たとえ>が引用されたエッセイ「私にとっての聖書」は、「未発表」=書き下ろしであり、それは「井上神父の心にリヨンでの回心以来、<徴税人の祈り>が息づいていることの証左となるものでした(「風」八七号三九頁)。

それで、このエッセイを辿りながら、神父の主張する所を読み取ってみたいと思います。


 九 「新約」-「旧約」間の断絶性

<旧約聖書と新約聖書の違い>

井上神父はまず、若い頃「無味乾燥な文章の羅列」と感じていた聖書が、どうして「魅力的な書」(新約聖書)になったのか、を述べることから始めます。

このなかで神父は、旧約聖書と新約聖書の構成を説明しながら、

<・・・・砂漠の宗教である旧約聖書の神の姿を信じて従いなさいといわれても、到底私にはついていけない>

<・・・・旧約聖書と新約聖書とのちがいを明白に打ちだすことが大切だと思っています。そしてそれが、日本の人たちにキリスト教を誤解なしに理解していただくために極めて大切なことだと思っています。>(一二〇~一二一頁)

と述べています。


井上師のこの一冊については、すでに9つ目の項目になります。
さらに、長くなりそうです。
それだけ、この神父の一文は、宝の宝庫なのですね。


読者の皆さん、おはようございます、平田です。
いつも当ブログをご訪問くださり、ありがとうございます。
こちらは、今朝、初雪が降りました。
mitakaforestさん、mntenkoさん、毎日のようにアクセスくださいまして、励みになります。

昨日まで、16回にわたって「余白の風」1月号をアップしてきました。
今日からは、「風」に連載しているエッセイを、アップして行きます。

すでに本誌をお持ちの方もいるかと思いますので、
執筆中の裏話?も含めて、上記のように、
最後に一人つっこみを入れながら(笑)
少しずつ載せて行きますね。
よろしく、お付き合いください。

category: 連載「井上神父の言葉に出会う」

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コメント

お礼

いつもありがとうございます。関東地方の初雪の模様TVを観ながら井上神父様も余白先生にも雪と同じく ここの所の寒さも身に染む毎日かと気になっておりました。ちらちら降る雪でも夜は道路も凍てるでしょうし、どうぞお怪我のないように。
mitakaforestさんのComment、本当にそのとうりですね。思ってはいてもこんなに上手に”南無のこころ”の心象を文章にできることに共感はもちろん感心いたします。又たしかに後半のイエスの本当に伝えたかった事の核心を捉えるには・・・・は井上神父様の-日本人の琴線にふれるイエスの顔-を求めて、まさに”風の家”が舞台のような気がいたします。いつもつたない文章で恥ずかしいですがまたtwitter,ブログと、ご指導よろしくお願いします。


mntenko #- | URL
2012/01/21 01:00 | edit

今年もよろしくお願い致します
余白先生、今年もよろしくお願いします。
いつもブログとツイート楽しく拝見しています。
記事を拝読しながら、いつも昨年お会いしたときの先生のお顔を思い浮かべています。

宗教は何のために存在するのか?
言うまでもなくそれは、困難なときも、病めるときも、そして死に直面した時も、できるかぎり生き生きと1日1日を過ごすためであると思います。
長い人生のうちには、理不尽な困難に直面する日もあるでしょう。
しかし、不満いっぱいで日々を過ごすより、神の恵みと捉えて乗り越えるほうがどんなにか心安らかであることか・・・、またその方が結果も好転する可能性が大きくなることは充分考えられます。
太古の昔から、あらゆる民族は生きる知恵として、本能的に神を想定したのだと思います。
しかし悲しいかな、宗教という殿堂は、体制が整えば整うほど形骸化し、心情に寄り添うという宗教の基本を蔑ろにしてしまう傾向があります。
イエスが生きた時代のユダヤ教はまさにそうのような状態であったのでしょう。
そこに毅然とメスを入れたのがイエスさまなのだと思います。
あるがままを認め、赦し、ともに担う、遠藤周作先生の「同伴者イエス」こそが、イエスさまの説くアッバの姿。
そして井上神父さまは、この慈しみ深いアッバこそが、人生というドラマの総監督とお教え下さいました。
アッバが総監督をして下さる人生舞台なら、どんな役回りも喜んでがんばれる、井上神父さまの下さった「南無アッバ」でがんばれる、そう信じることが宗教のある生活なのかなと考えます。
宗教のために人間が存在するのではなく、人々のより生き生きとした毎日のために宗教は存在する、きっとイエスさまもそうおっしゃりたかったに違いありません。
とりわけ日本のように、自分の意志で敢えて選びとった宗教としてキリスト教を捉えるとき、このことは明らかです。
イエスのほんとうに伝えたかったことの核心を捉えるには、ある意味で異国の宗教としてキリスト教が存在する日本という舞台設定は、むしろ効果的なのかなとさえ最近は考えています。
余白先生のお導き、毎日感謝しております。
今年もよろしくお願い致します。

mitakaforest #oBO5MkqQ | URL
2012/01/22 19:59 | edit

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