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日本人にわかるキリスト教を求めて

26May2012+011_convert_20120623181132_20120623222548.jpg井上洋治神父は、遠藤周作氏と共に、日本人の感性で正直に受けとめられるキリスト教を一生をかけて模索し、1986年「風の家」をはじめました。このサイトでは、「風の家」運動を引き継ぐ平田栄一が「求道俳句」ほか、日本人キリスト者の道を模索する試みを紹介していきます。お問い合わせ 略歴 著書

「余白の風」第192号 2011年12月発行   

*日本人の心の琴線にふれるイエスの顔を求め、福音を生きる

会員作品とエッセイ(*主宰コメント)

稲城市  石川れい子
古池や虚子翁しのぶ今朝の冬
姉妹小春日和に母となり
冬日和スカイツリーよ稲城より
番傘に時雨打つ音たのしめり
木の葉髪一気に白となりにけり

主宰「求道俳句集」選
美しく泣く人でした死者の月
冬晴れをゆるり歩めるイエスかな
黄落に埋もれる傘の柄の長さ

*⑤老病死は人間の定めとしても、私たちの実存のなかでは簡単に受け入れられるものではないでしょう。しかし、その受け入れ難い気持ちをそのまま受け取ってくださる主がいる・・・・。


八王子市  フランシスカ井上
切株の若芽が伸びて輝ける希望ここよりイザヤの預言
汚れたる女まるごと受け入れるホセアの愛は神に倣いて
残照に工場の屋根神々し一日の汗謝して家路へ

*②ここにも「受け入れる愛」が語られています。私たちが受け入れるより前に、主が先に。


名古屋市  片岡惇子
燃えもせず落ち葉したる条理かな
治まりし海を眺めて山粧う
喪失の心刈り取り刈田かな
山眠る川音黙し流るのみ
蜘蛛の網に我が自我架かり初時雨

*釜石での傾聴ボランティアご苦労様です。前面に出て行く愛も大切でしょうが、ここにも相手の悲しみにひたすら耳を傾け、寄り添う――受け入れる尊い愛があります。


大和市  佐藤悦子
小春日や訪れ給う諸聖人
行く秋のすじ雲天の梯子かな
なれかしの聖母に倣う南無アッバ
世の闇にオプティミズムや南無アッバ
どなたさま木枯らしトントン南無アッバ

*病や死を思うとき、お手紙にあった、フランシスコや正岡子規、そしてビートルズのLet it beなど「信仰の楽観主義」を思い巡らされた由。死者の月にふさわしい祈りとなったことでしょう。


豊田市 佐藤淡丘
琴線にふるる高さや石蕗の花
けふの声張りて美し冬に入る
行き悩むなほも途上か鰯雲
白障子瞬間よぎる鳥の影
土の道踏めば匂ひぬ冬隣

   土の道
 土の道は正直である。野池を巡る一周七〇〇メートルの道は、今も頑なに土で守られている。午前四時半、この日の一歩を記す。心地よい音が身体に伝わる。暗い池面に街灯が映り、月影の白い道はさまざまな表情をみせて私を誘う、「歩き続けよ」と。幼いときの遠い道の再現。まさに楽しからずやである。南無アッバ、南無アッバ、南無アッバ。

*「土」といえば、今は放射能除染の問題が思い浮かんでしまいます。アスファルトに囲まれた生活のなかで、「土の道」は私たちに、ほっとする心を与えてくれていたことに、気づかされます。


京都市  瀧野悦子
通勤のカバンふくらむ十二月
冬うらら腹を隠さぬ布袋さま
高僧のご飯みそ汁冬ぬくし
百度踏む背に冬日の豊かなり
合格の絵馬をかかげし旅行生

*神社仏閣の町にお住まいの作者。宗教のちがいをこえて、人々の正直な願いと祈りに触れるチャンスも多いことでしょう。年の瀬に向けて思いを共有。


一宮市  西川珪子
天のもの夕日あかあか鰯雲
えのころに集まるやさしき風のあり
看取る人看取られる人雁の夜
ちちろ虫哀しきまでに吾を呼ぶ
満月の兎を探す私がをり

*華道・茶道の道でもお忙しくされている作者。「やさしさ」のなかに「哀しみ」のちょっぴり覗く佳作。


秦野市  長谷川末子
 小春日
行き交う人の挨拶が/子供の声が聞えます/山茶花、紅葉風に舞う/石蕗の黄色に戻り花/四季の恵みも年の瀬も/知っているから有難い/夜の三日月絹の様

*「知っている」主体が、作者ご本人のようで、よく読んでみると、草花や自然なのかな、と思えてくる。やがて、ああ、アッバこそがすべてを知って取り計らわれているのだと・・・・。


蓮田市  平田栄一
葦の芽に古事記の人は神を想いB・パスカルは人を想いき
携帯をいじる人かとよく見ればロザリオの珠まさぐりおりぬ

寄贈誌より

「日矢」五六二号  新堀邦司
月下美人開くや月は天心に
草千里色なき風の渡りけり
ちちははの星のまたたく星月夜

*②「色なき」ゆえに草木を生かし私たちを生かす余白となってくださった方。


「野守」四六号  大木孝子
ほつかりと老いたし日蓮さま秋
死はめでたしめでたし鉦叩く秋
水笛のひゆるるひゆるると秋の果

*②「死はめでたし」と言えるまでにアッバへの信頼をこそ求める。


『幼きイエズスの聖テレジアの教訓と思い出』覚書4
  何も頼ってはなりません
テレジア童貞は自分の信心を養うために、聖書の言葉や文句を思い起こすのが常だった。
「私もそうしたいのですけれど、記憶が悪くて!」と私は彼女に言った。
――ほら、もう富を所有したがっています。自分のものが欲しいのです。それに寄りかかるのは灼熱した鉄に寄りかかるのと同様です。やけどをします。何にも、信心の助けとなるものにも頼らないことが必要です。なんにもない、それが真理です。それは望みも、喜びに対する希望も持たないことです。そうすればどんなに幸福でしょう。「すべてを投げうち、おのれを捨て全く自分というものから抜け出して、少しも自愛心を残さぬ者を、だれか見いだすことができようか。こういう人は、極めて遠く地の果まで探しに行かねばならない」(キリストの模倣二巻十一章4)とキリストの模倣は言っています。極めて遠く、すなわち極めて低い所に、自己評価において極めて低く、謙そんによって極めて低く。極めて低いとは、ごく小さい人のことを言っているのです。(三二~三三頁)

*私たちにとって「何にも、信心の助けになるものにも頼らない」とは、なかなか厳しい言葉です。
そもそも最初に、「テレジア童貞は自分の信心を養うために、聖書の言葉や文句を思い起こすのが常だった」といっています。そうするとテレジアは、自分ではしていることを他人には禁止する、という矛盾をおかしているのでしょうか。

繰り返し読んでみるとこの箇所はそういう趣旨ではないようです。どんなに良いと思われるもの――ここでは「記憶」や「信心業」など――であれ、より多く所有しようとする貪り=利己心への注意ということが一つ。
そしてもう一つは、他者と比較して「あれが欲しい」「だが、自分にはない」と羨ましがり、嫉妬することの不幸を指摘しているように思います。

「極めて遠く、謙そんによって極めて低い、ごく小さい人」とは、今あるがままで充足し、アッバに感謝し、信頼し続ける人のことではないでしょうか。(つづく・余白)


求道詩歌日録(ブログより):平田栄一
主の御名を呼ぶ者は皆救われる冬晴れに聞く子らの歓声  (ローマ10:9-18)
11.30 みじめであればあるほど神様は慈しんでくださいます。(リジューのテレジア)
「はい、主よ」とはっきり答える盲人の目は開けたり冬の雨降る  (マタイ9:27-31)
12.02 ここ二日寒い雨が降ります。皆様お体お大事に。またいずれ、暖かくなるでしょう。次号「余白の風」編集中。
神の義は神の賜わる義なるべしルターは愛の神を見つけり
12.04「キリスト者の自由」第七節まで読む。昼過ぎても富士山がはっきり見える。
一途なる信頼だけが求道者の為すべき業とルターは言えり    (ルカ5:17-26)
12.05 病者本人であれ、知人であれ、このペリコーペは、イエスがいる家の「屋根に上って瓦をはがす」までしても、主を信頼したことが、称賛されている。「イエスはその人たちの信仰を見て」癒された。
皆様、どうぞ良いクリスマス&新年を。南無アッバ。


南無アッバの集い&平田講座十二月十七日(土)
「余白の風」入会案内=サイドバー参照

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thread: 宗教・信仰

janre: 学問・文化・芸術

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