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第19回南無アッバの集い&平田講座(報告)  

11月26日(土)
出席者16名。
とくに、広島や会津など、遠方からおいでくださった方々、ありがとうございました。


テキスト『心の琴線に触れるイエス』p.32-33

十字架から復活へ

さて、その上で井上神父は、どちらかといえば「十字架というよりも復活」を救いの中心に置くと、先の佐古氏との対談で述べています。これはどういうことなのでしょうか。

そこでまず、井上神父が十字架をどういうものとしてとらえているのか、を見てみましょう。

井上神父は、牧師さんたちの集会で講演をしたとき必ず出るのが、「井上神学には十字架がないのではないか?」という質問だいいます。十字架がなければイエス教ではあってもキリスト教ではなくなってしまう、という心配が根底にあるのでしょう。井上神学に対して疑問を投げかける牧師さんたちが考えるキリスト教は、佐古氏に代表されるように、わが罪の自覚とイエスの十字架の犠牲・贖罪、それが救いの中心にあるようです。

しかし井上神父は、イエスの十字架を、人間の罪の犠牲(サクリファイス)としてよりも、「私たち一人一人の人生の苦しみをそこでいわばmitleidenして(共に担って)くれた」もの、あるいは「汚れを取り去った、神との調和を回復した」ものとして受け取っています。十字架をイエスの共苦的姿勢――悲愛(「悲」は「共に」悲しむの意を含む)の頂点に位置するものと考えているのです。

ですから、「井上神学には十字架がない」ということにはならないのです。


講座後は、いつものように、カトリック喫茶エルで楽しいおしゃべりの時間をすごしました。
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