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聖書について  

ここでちょっと聖書の話をしておきましょう。きみたちは、〝聖書〟と聞いただけで、「ああ、あの悟り切ったような顔でおもむろに近づいてきて、いきなり『あなたは神を信じますか?』と声をかけてくる人たちが抱えている本のことか。それならまっぴらごめんだね。」と敏感に反応する人も多いでしょう。わたしのところにも、「先生、わたしは聖書のあの頁――総ルビでぎっしり文字の詰まった字面を見ているだけで、何か洗脳されてしまいそうでとても読む気にはなれません。」と言ってくる生徒もいますよ。

 でも、こういう反応をぼくはけっして大袈裟だとは思いません。現在の平均的日本人の正直な感想だと思います。最初に書いたように、一部の宗教団体が恐ろしい事件を起こしたことが問題になっているこの頃です。聖書→宗教→恐ろしいもの→なるべく関わらないこと、というアレルギー反応が現代の日本人のなかにできあがってしまっても仕方ない状況なのかもしれない。

ただ一方で、こうした〝臭いものには蓋〟という発想でよいのか?という疑問も沸いてきます。〝君子危うきに近寄らず〟という言葉と同時に、〝彼を知り、己れを知るは百戦危うからず〟という言葉もあります。歴史上幾度も繰り返された宗教戦争や人殺しをほんとうに聖書は認めているのだろうか、一度は聖書にあたってみる必要があるように思います。日本人の国際化が叫ばれるなかで、〝聖書を知らずして西欧を知ることはできない〟ともいわれます。

今の世の中には宗教に関する本はあふれかえっていますよ。
映画、小説、美術、音楽、ときには君たちの好きなテレビゲームやパソコンゲーム・・・・、とくに外国ものの芸術には、よく聖書を題材にしたり、引用したりしていることがあるのは知っていますか。そう気がついたとき、一度は聖書って何が書いてあるんだろう、と興味を持ったことがあるかもしれない。なかには、実際にめくったみたことがある人もいるかもしれません。宗教関係の棚があるような大きな本屋さんに行くと、たいてい何種類かの「聖書」が置いてある。事典のように大きいのからポケット版までいろいろ。でも内容までは知らない。場合によっては君たちの家の書棚にもどなたかが買ったのか、もらったのか、置いてあったりするのではないでしょうか。しかしいずれにしても、まともに読んだことがないというのが正直なところじゃないでしょうか。

実は聖書は今でも世界全体でベストセラーなんですね。ミリオンセラーなんてものじゃありません。その上をいくベストセラーです。ところがそんなに売れているのに、ある意味最も読まれていない本でもあるんです。その理由は、聖書の〝読みにくさ〟にあります。

第一に視覚的な問題。パラパラとめくった経験のある人はすぐわかるでしょうが、字面が読みにくい。たいていは行間が詰まっていて、細かい文字がぎっしり詰まっています。なぜかというと、膨大な情報量を一冊に押し込めようとしているからです。それで最近は、分冊にして読みやすく製本されているものも出ていますが、そうすると今度は持ち運びに不便で、全部そろえようとすると値段も高くなってしまいます。

第二に内容の問題。「聖書」って聞くとたぶんきみたちは、黒い革表紙で分厚い一冊の本を思い浮かべるかもしれないけど、最初からまとまった一冊の本じゃなかったんだね。何十とあるいろんな文書をまとめた「合本」といっていい。で、その何十かの文書が、大きく二つに分かれています。「旧約聖書」と「新約聖書」。

新約聖書は今は一冊の本になっているけど、もともとは別々に書かれた27個の文書を後でまとめたものなんだ。その最初の四つが福音書とよばれています。

福音書というのは、キリスト教の中心人物であるイエスの伝記のようなものです。ただ、ふつうの伝記とちがうのは、きみたちが「日本史」とか「世界史」とかいうときのように、必ずしも年表のように歴史的な順序や史実をそのままうつしたものじゃないんだね。

いや実は、このへんは微妙な話でね、福音書の史実性(どこまで歴史的事実か)ということ自体がもう、聖書学のいろんな議論を含んでいるんだ。だけど、今はそういうむずかしい議論は置いといて話をすすめましょう。

ぼくはとりあえず、今の言葉でいうと、福音書っていうのは歴史小説みたいなものだと考えていいんじゃないかと思う。豊臣秀吉でも織田信長でもいいんだけど、君たちもなんか小説仕立ての歴史を読んだことがあるよね。ああいうのって、まるっきりフィクションっていうことはないよね。著者によっては、すごく現地調査や資料をくわしく調べている。それをもとにして、著者が主人公の一生を再構成していくわけだね。

そうは言っても、きみたちが福音書を最初に読んだときに、たぶんすぐひっかかるのが、奇跡の問題でしょう。イエスが水の上を歩いちゃったとか、死人をよみがえらせたとか・・・・。史実としての結論からいえば、そういう奇跡は実際起こったかもしれないし、起こらなかったかもしれない。いまさらどうにも証明する手だてはないんだな。

でもそこでうっちゃっちゃったらもったいない、ってことも書いてあるんだな、聖書には。
四人の著者が、あるところでは共通の資料を使い、別のところでは独自の資料を使って、それぞれの視点でイエスの伝記、さっきの言葉で言えば歴史小説を書いたということです。
今とりあげようとしている『マルコ』っていうのは、新約聖書のなかでは『マタイによる福音書』の次に出てきますから第二福音書ってことになるね。ついでにいうと、第三は『ルカによる福音書』、第四は『ヨハネによる福音書』です。(以下、『マルコ』『マタイ』『ルカ』『ヨハネ』と略します。)

で、ちょっとめんどうなのは、聖書全体にいえるんだけど、おさめられている文書の順番がその文書が書かれた年代番になっていないんだよ。『マルコ』は二番目に出てくるけど、実は四つの福音書のなかでは一番古いんだ。たぶん、紀元65年~70年代の初め頃書かれている。
イエスは紀元前7年からたぶん4年くらいの間に生まれて、紀元30年か31年に死んでいる。これは間違いない史実です。だから、けっきょく最初の福音書でさえ、イエスが死んでから30年以上経って書かれているんだよ。そう聞くと君たちは、「そんなに経ってから書かれてんじゃ、ますますあやしいもんだ」と思うかもしれない。

ぼくは今年47歳で、今から30年前は、ちょうど君たちと同じ年代だよ、高二か高三。今ぼくに、「おまえ、高校生のときに聞いたり見たりしたことを、綿密に書き出せ」っていわれたら、こりゃ、困るね。ほとんど憶えていないもの(笑)。

でもね、よく考えてみると、特定のことだけははっきり憶えているだなあ。たとえば、うちの奥さんのこと。そう、ぼくの奥さんは高校の同級生なんだ。だから、いっしょにフォークダンスを踊ったときの手の感触? なんかまで、憶えていたりするわけね(笑)。

つまり、30年経っても、ものすごくインパクトの強いことっていうのは、けっこう細部まで憶えているものなんだなあ。もしイエスが、当時の民衆にとってそういう強烈な個性の人であったとすれば、その複数の人たちの記憶や証言は、かなり信用できると思うんだね。もちろん伝承の過程で、わいきょく歪曲されたり、脚色されたりした点もあることが、現在までの聖書学でわかってはいます。そのへんも、これから必要に応じて指摘していきたいと思います。

それからもう一つ信用できる材料は、当時の人の記憶力の良さだよ。聖書の舞台になっている2000年前のユダヤ(パレスティナ)地方では、ものを書く材料は羊皮紙かパピルス紙だった。すごく高価なものだから、一般の人は手に入らない。だから人の言ったことは今のように気軽にメモをとるんじゃなくて、基本的に記憶におさめるほかなかったんだな。そう考えると、話者に対する注意力や観察力は、今みたく紙があふれている時代とは比べようもなく強かったと想像できるね。

ということで、聖書に書かれていることを、とりあえずはしっかり読んでいいんじゃないかってところまでやっとたどりついた感じがします。
だからここでもぼくは、とりあえず福音書の伝えるところに耳を傾ける、っていう態度が必要なんだと思う。

奇跡物語にしても、著者がその話をとおして何を言いたかったのか、っていう視点で読んでみたいと思うのです。

さて、さっき引用した文のところどころについている番号は、節っていうんだ。聖書の該当箇所を指すのに便利なんで、中世になってつけられたものだね。もともとのギリシャ語原文(といっても写本だけど)には、節も章も句読点もついていない。
この段落(ペリコーペっていいます)を、じっくり検討してみましょう。

イエスが旅に出ようとすると、「ある人」が走り寄ってきて声をかけた、という設定だね。この「ある人」は男だね。
ところがね、これと同じような話が『マタイ』にも『ルカ』にもあるんだ。ほとんど同じ内容なんで引用しないけど、なんで三つが重複しているか、ってことを、ちょっと説明しておきましょう。

実はね、前にも言ったように、新約聖書におさめられている福音書は四つある。そのうちの前の三つ、つまり、『マタイ』・『マルコ』・『ルカ』は内容的によく似ているんで、共観福音書っていうんです。なぜ似ているかというとね、『マルコ』が一番古くて紀元六十年代の後半から七十年代にかけて書かれ、『マタイ』や『ルカ』が書かれるときは、この『マルコ』の写本が出回っていた。で、マタイやルカはこれを参照して自分たちの福音書を書いたんだ。『マタイ』や『ルカ』は紀元八十年代以降でしょう。

もちろん、ただ『マルコ』を書き写したんじゃ意味がない。マタイは自分が持っていた独自のイエス伝承資料(これをM資料といいます)を混ぜていく。ルカも独自のL資料を混ぜていきます。だから、『マタイ』や『ルカ』には、『マルコ』の九十パーセントは含まれているんだな。

さらに、よくこの三つの福音書を比較していくと、『マルコ』にはないけど、『マタイ』と『ルカ』に共通している記事もあるんだよ。だから学者たちは、マタイ・ルカが福音書を書いたときには、『マルコ』のほかに、イエスの言葉集みたいなものが出回っていたんじゃないか、って考えたんだ。それをQ資料といいます。Qはドイツ語のQuelle、「源泉」というような意味だね。

ということで、けっきょく、次のような図式になる。
『マタイ』=『マルコ』+Q+M
『ルカ』=『マルコ』+Q+L
で、三人の共観福音書記者は、それぞれの置かれた視点で、福音書を編集したってことになるわけ。

さっきの『マルコ』記事に出てくる「ある人」。実は『マタイ』では「一人の男」になってる(19:16)。『ルカ』では「ある議員」になっています(18:18)。なんでこういう違いが出てくるか、ってことなんだけど、当時は印刷じゃなくて、手書きの写本によって本が増えていく。最初に書かれたものをだれかが写す。それをまただれかが借りて写すわけ。そういう作業の繰り返しだね。

そうすると、第一は、うっかりして写し間違えるってことが考えられる。人間がやることだから、仕方ないよね。
第二は、ちょっとめんどうだよ。書き写した人が、わざと、つまり故意に違うように書きかえるってこともあるんだよ。

福音書を含めて新約聖書がなんでつくられたかというと、「イエスがキリスト」つまり、イエスが現れたことによって、自分たちが本当の救い(「救い」とは何かってことは、また、少しずつ考えていきましょう)にあずかれた、っていう喜びを証言するためなんだから、故意といったって、悪意はない。むしろ善意で、書き直しちゃうってことがあったと考えられるんだ。

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