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付録:なぜ信じたのか  

ときどき人から、「なぜ洗礼を受けたのか?」と聞かれることがあります。わたしは、職場や友人関係においても、自分がキリスト者であることをあえて隠したことはありません。むしろチャンスがあれば積極的に表明している方かもしれません。しかし「なぜ洗礼を?」と聞かれて咄嗟に何と答えようかいつも戸惑います。
内村鑑三も言っているとおり、どのようにして(how)キリスト者になったか、という経過は説明できても、どうして(why)キリスト者になったか、という理由はなかなか言語化できるものではないのです。気取ってこんなことを言っているのではありません。実際やってみようとして、本当に苦労するのです。病気・不安・・・・どれも少しずつは受洗の動機となってはいるでしょうが、どれも決定的なものではないような気がするのです。先年亡くなった遠藤周作氏の言葉を借りれば、そこにもう一つ、何か「X」とでも呼ぶべき者の力が働かなくては、受洗までは決意しなかったに違いないのです。
神の子イエス・キリストの福音の初め。
新約聖書にある四つの福音書のなかで最も古い『マルコ』はこの言葉で始まります。キリスト教と言えば、「イエス・キリストに対する信仰」のことを指すことは誰でも知っているでしょう。しかし、イエスが神の子であるということ、またキリスト(救い主)であるということをどうして信じたのか、と問われると、誰にでも納得してもらえそうな答えを探しだすのは至難の技なのです。
〝復活とか奇跡とか・・・・この科学万能の時代にそんなこと本気で信じてるの?!〟「なぜ受洗したか」という問いの裏にこんな気持ちが見え隠れすることもあります。少なくとも一つ言えることは、復活や奇跡が証明されたから、だからイエスを信じたのではない、ということです。むしろことは逆で、イエスの人格を信じたから復活も奇跡も信じたということです。それにしても、ではなぜイエスの人格を信頼できるのか、そこのところは説明できないまま残ります。
いろいろな人の「回心記」などを読んでみると、ある場所、ある時点で特別な宗教体験をした結果、神やキリストを信じるようになった、というように受け取れるものがたくさんあります。そのなかで最も有名なのは、パウロ(サウロ、サウル)のものでしょう。ここで少し引用が長くなりますが、彼の回心の経過をたどってみたいと思います。
さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていた。サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。 ところで、ダマスコにアナニアという弟子がいた。幻の中で主が、「アナニア」と呼びかけると、アナニアは、「主よ、ここにおります」と言った。すると、主は言われた。「立って『直線通り』と呼ばれる通りへ行き、ユダの家にいるサウロという名の、タルソス出身の者を訪ねよ。今、彼は祈っている。アナニアという人が入って来て自分の上に手を置き、元どおり目が見えるようにしてくれるのを、幻で見たのだ。」しかし、アナニアは答えた。「主よ、わたしは、その人がエルサレムで、あなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました。ここでも、御名を呼び求める人をすべて捕らえるため、祭司長たちから権限を受けています。」すると、主は言われた。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。」そこで、アナニアは出かけて行ってユダの家は入り、サウロの上に手を置いて言った。「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。」すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。そこで、身を起こして洗礼を受け、食事をして元気を取り戻した。(使徒言行録9.1~22)
文学的にも美しいこのくだりを読んで、まず印象的なのは、「突然、天からの光が彼の周りを照らした」り、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかけるイエスの声――声は聞こえても姿は見えない――であったり、「たちまち目からうろこのようなものが落ち」るサウロの姿などでしょう。このとおりのことが実際、パウロに起こったのか、あるいは彼の心境の変化を文学的に表現したものなのか、証明はできませんが、いずれにしろ、何か劇的な回心がパウロに起こったことだけは事実でしょう。
しかし、わたし自身を含め、こういう劇的な回心は誰にでも起こるわけではありません。むしろキリスト者としては希な体験と言ってよいでしょう。では、長々と引用したこのパウロの回心体験は、特殊なものとして、一般的な受洗動機とは別に扱うべきなのでしょうか。わたしはそうは思いません。
たしかに、ダマスコの体験自体は劇的で、ある時突然起こったもののように記されています。しかしこれは、何の前触れもなく、何の関わりも持たない(復活者)イエスが突然、パウロの人生に介入してきた、ということなのでしょうか。そうは思えないのです。
パウロは回心前からイエスのことを知っていました。そればかりでなく、正統なユダヤ教徒として、「主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んでいた」のです。キリスト教会最初の殉教者であるステファノの死にも立ち合っていたようです(使徒言行録7.58) 。要するに、回心前のパウロは、反対の立場にありながら、キリスト者が何を信じ、どう生きているかを少しずつ知っていったと推測されるのです。実際に、ステファノの殉教に代表されるように、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と、自分を迫害する人々をゆるし、祈って死んでいくキリスト者の姿を見ていたにちがいありません。そしてその姿は、イエスの十字架の死の姿と二重写しになります。
そのとき、イエスは言われた。父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。(ルカ23.34)
こうしたことが、パウロ回心の伏線として敷かれていったのではないでしょうか。その過程で、律法遵守に最大の価値を置いていたファリサイ的な生き方から、愛とゆるしこそが生き方の源泉なのだと少しずつ悟っていったのだと思うのです。ダマスコでの回心は、その延長線上に、頂点として起こった出来事だったと言えます。けっして、何の前触れもない突然の回心ではなかったのです。
もう一つ重要なことがあります。光に照らされ、イエスの声を聞いたパウロは、目が見えなくなります。そこで、「同行していた人たち」がダマスコに連れて行きます。さらに、アナニアがパウロの上に手を置くことによって、「目からうろこのようなものが落ち」元どおりに見えるようになった――回心したのです。つまり、パウロの回心は、彼と神あるいはイエスの間で独立しに起こったことではないのです。目の見えないパウロをダマスコまで連れていく人たちがいなければ、またアナニアという人物が介在しなければ回心は起こらなかったと言ってよいでしょう。パウロの回心の経過を長々と引用したのは、この点を読者に知ってもらいたかったからです。こうしてパウロを信仰に導く伏線は、他者との関わりの中で様々に準備されていき、時が熟した時点で回心が起こったと考えられるのです。
以上のように、パウロの例を振り返ることによって、一見唐突に思える回心も、実は人生の長い時間的な経過の中で少しずつ準備されていくものであるということ、そして、その回心には他者との関係が大きな要素として作用することがおわかりいただけたかと思います。
こうしたことは、一人パウロの回心に特殊なものではなく、世のキリスト者、いな、何らかの信仰を持つ者に共通するものではないでしょうか。さらに言えば、こうしたことは信仰の問題に限らず、私たちの日常全般に言えることなのです。
遠藤周作氏は、多くの著書の中で次のように繰り返し述べています。
眼に見えぬ働き──それを神といってもいい。なぜなら神とは普通に言われているように存在というよりはむしろその働きを我々に感じさせるものだからだ。
それに気づいたのは自分の人生をいささか俯瞰できる年齢になってからである。神は直接ではなく間接的に、友人や邂逅や離別や、いや犬のぬれた眼や死んでいく小鳥の眼を通して働いていたことがやっと私にもわかったのだ。(『落第坊主の履歴書』)
「なぜ、洗礼を受けたのか」という問いの答えには、人生のすべて――生い立ち、人間関係、心身の状況すべてが総合されていると言わざるを得ないのです。こうして、いわば「時が満ちた」(マルコ1.15)とき、前述の遠藤氏言うところの「X」が働いて回心――受洗に至るのではないで しょうか。いなむしろ「X」は、私の人生の始まる前にも私の死後にもあらゆるものに働きつづけている力というべきなのでしょう。
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