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悔い改める、って?  

 まず「悔い改め」が問題です。このギリシア語メタノイアは、「過去を捨て、新しい生を求めて神に立ち帰ることを意味する」(新共同訳聖書辞典)します。しかしわたしたちが「悔 い 改める」というと、ああいう悪いことしてしまった、こういう罪を犯してしまった、というような、過去の個々の問題を反省するという意味で〝改心〟を連想するわけです。しかしメタノイアとはむしろ、全身全霊をもって百八十度〝神の方に向き直る〟ということが強調されているのです。つまり水平的な人間関係における反省以前に、神と人間との垂直的な関係が重視されているのです。
 前述のエピグラムで、新約聖書中「罪」と日本語訳されている〝ハマルティア〟が本来〝的をはずす〟という意味であったことに触れましたね。弓矢競技をやる場合、どんな名手がうまく狙ったとしても、矢そのものが曲がっていたとしたらけっして的を射ることはできないでしょう。わたしたち人間も、これと同じように、神と人との原関係(原罪∧Sin∨の問題)が正しくされてはじめて、人間同士の関係(罪∧sins∨の問題)が正しく導 かれるのです。




私は
基督の奇蹟をみんな詩にうたいたい
マグダラのマリアが
貴い油を彼の足にぬったことをうたいたい
出来ることなら
基督の一生を力一杯詩にうたいたい
そして
私の詩がいけないとこなされても
一人でも多く基督について考える人が出来たら
私のよろこびはどんなだろう

これは信仰詩集『神を呼ぼう』の序として巻頭に置かれた作品です。この詩集は重吉の死後23年を経た昭和25年に、無教会主義のキリスト者・鈴木俊郎によって選・編集されたものですが、「かれ(重吉)の詩は、かれの信仰の表白のほかの何ものでもありません」という鈴木氏の視点に立って、膨大な重吉の詩群からいわゆるキリスト教詩のエッセンスを、見事に抽出しています。鈴木氏がこの「願」という詩を巻頭に置いたのはおそらく、重吉がどんな姿勢で詩作に取り組んできたかを端的に表している作品と判断したためでしょう。
重吉は、〝福音書にある「基督の一生を力一杯詩にうたいたい」それが自分の願いなのだ〟といいます。しかしそれだけで終わってはいません。もし「私の詩がいけないとこなされても/一人でも多く基督について考える人が出来たら」それで本望なのだ、というのです。ここには、詩人・重吉が長い間こだわってきた最も大切なもの──詩人としての自分の姿勢、自分のスタイル、自分の言葉といったあらゆる「自分」を相対化してしまう、強い覚悟を読み取ることができるのです。
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