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奇跡について  

ここで信仰と奇跡の問題にも触れておきましょう。
福音書に記された奇跡的な話が事実としてあったのか、なかったのか。
あったとすればどこまでが事実なのか、科学的に検証しようという試みは、歴史上繰り返し行われてきましたし、現代のわたしたちにとっても、興味のあることにはちがいありません。
一時イエスのこれらの奇跡をすべて否定し、合理的に解釈しようとする神学が隆盛したこともありました。
結論を先にいえば、史実としての奇跡があったかなかったか、確かめようがない、ということです。
私見をいえば、少なくともイエスが常人にはできないような奇跡的な業を何らか行っていたことは十分あり得ると思っています。
イエスが伝えた神の国の現実性と奇跡の問題については、次のような句が参考になるかもしれません。
                                    
<すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。・・・・』と書いてある。」次に、悪魔は・・・・神殿の屋根の端に立たせて、言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、・・・・手であなたを支える』と書いてある。」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。>(マタイ四・三~七抜粋)

イエスは、「石がパンになるよう」な奇跡を拒否し、神殿から飛び降りて神を試すことも拒否します。なぜでしょうか?
おそらくそれは、自分が「神の子」であることの証拠として奇跡を利用し、証人として神を利用するなら、神とイエスの間に真の信頼関係が成り立たなくなるからです。
わたしたちが日常経験する親子や夫婦あるいは友人関係を考えてみてください。
愛情や友情の〝証〟として何かをプレゼントするとします。
しかしそのプレゼントによって、はじめて愛情や友情に気づき、あるいはそうしたものが成り立つわけではないでしょう。
プレゼントは、あくまでも長い間にともに培ってきた愛情や友情の結果としての証なのです。
 ほんとうは改めてプレゼントなどする必要はないのです。しかし人間は弱いものですから、長いつき合いの中でともすれば相手の気持ちがわからなくなり疑ってみたり、相手の厚意を当然と思ってしまうこともあるでしょう。そんなときにある種のプレゼントがお互いの関係を再認識させ、さらに深い愛情を育む契機となるのです。
 神とイエスの関係、あるいはイエスとイエスを信じた人たちの関係もこれと同じです。古今東西奇跡的な話は数多ありますし、その事実を否定するつもりはありませんが、少なくとも神の国到来のしるしとしての奇跡は、イエスの神に対する信頼、イエスについてきた人たちのイエスに対する信頼なしにはありえないということになるのです。
 端的に言えば、そうした信頼を前提としてイエスを見、彼の話に耳を傾け、彼に触れた人たちにとっては、イエスのすべての行為・言動さらにイエスの存在そのものが奇跡的であり、喜ばしい報せ〓福音と受け取られたのではないでしょうか。

  更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そう か。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときは、地上のどんな種よりも小 さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れる ほど大きな枝を張る。

 ではわたしたちは何もしなくていいのか、というとそうではありません。神の国の成長のために「土に種を蒔く」という仕事は、あくまでも「人が」しなければならないのです。その第一歩は何でしょうか。再び『マルコ』一・一五のイエスの最初の宣教の言葉に戻ります。

  時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。(マルコ1.15)

 満ちてくる「時」、近づいてくる「神の国」に対して、わたしたちは「悔い改めて福音を信じなさい。」といわれています。また少しずつ見ていくことにしましょう。
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