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第91号-求道俳句とエッセイ  

「余白の風」は俳句を中心として、日本人の心情でとらえたキリスト信仰を模索するための機関誌です。毎月発行しています。
 
2003/12/1 発行者:平田栄一

<最近の余白作品から>

主に秋

●秋晴れに戸板浮かべし死出の旅

●天使祭カミヨアンタガシュヤクデス

●ままならぬゆえに御旨と知れる月

●天国の門を狭めし繁茂かな

●三度秋イエスの夢に癒されし

●癒えぬまま秋夕暮れを主と泣きぬ

●山川の祈れる姿や秋晴れる

●従順の果ての十字架秋の空

●去る友も来る友もいてロザリオ祭

●道なき道を神は備えし秋の暮

(『豈』37号─俳句空間篇)




連載<俳句でキリスト教>

<神は密かに働く>

●勇気こそ地の塩なれや梅真白

                中村草田男

 草田男の代表的な句です。

ニーチェに心酔していたこの人間探求派の大俳人が、カトリック信者の夫人の影響もあってか昭和十一年以降、宗教的な句を作るようになります。

 掲句をキリスト者が読めばすぐ、



 あなたがたは血の塩である。・・・・あなたがたは世の光である。・・・・そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。(マタイ五・一三、一四、一六)



という有名な聖句を思い浮かべるのがふつうでしょう。しかし、この句は昭和十九年、戦争が激しくなるなかで、学徒動員で出征する教え子に草田男が贈った句であり、後年彼自身が語ったところによると、聖書的な「地の塩」よりも、ニーチェが超人思想で示したような「勇気」の方に句意の重点があったようです。

 けっきょく草田男は死の直前、カトリックの洗礼を受けたのですが、「ぼく自身は信仰の世界に入り切れていない」という言葉を残しています。

 人の心の動き、とくに信仰といったことになればなおさら、他者が云々することはどこまでも想像の域を出ないでしょう。本人ですら自分の信仰のありかをはかりかねるものなのですから。

 しかしそうであればこそ、戦場で戦う「勇気」から「地の塩」を連想させ、最期まで「信仰に入り切れない」といって神を意識させたもの、それこそ神の密かな働きというべきではないでしょうか。



<恐怖から畏怖へ>

●春眠の神にあづけし命かな

                徳永夏川女

 『マルコ』には、次のような記事があります。



その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると風はやみ、すっかり凪になった。イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。(四・三五~四一)



 これは掲句のように、「春眠」暁を覚えず、というのんびりした情景ではありません。しかし「眠・・・・神にあづけし命」から、多くのキリスト者は『マルコ』にあるこのペリコーペ(段落)を連想するのではないでしょうか。そしてそれは、にわかに起こる「激しい突風」の中でも、「艫の方で枕をして眠っておられた」イエスの心情を考えると、それほどかけ離れた連想ではないようにも思うのです。

 どんな自然の脅威のうちにも、ひいてはどんな境遇のときにも、神への信頼を失わなかったイエスの澄明な心は、あたかも「春眠」のうちに「神に」「命」を「あづけ」ているがごとき平安に満ちていたのではないかと想像するのです。



一方弟子たちはこの時点では、神またイエスへの信頼を確立していなかったために、「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と叱責されます。そして弟子たちは「非常に恐れ」ますが、この「恐れ」は嵐に対する恐怖・臆病ではなく、イエスという神の人、神的存在を目の当たりにした宗教的畏怖といってよいでしょう。こうして彼ら、またキリスト者は、神に命をあづけること、神への全幅の信頼を学んでいくことになるのです。



<キリスト者が読む山頭火>

●ひさしぶりに掃く垣根の花が咲いてゐる

山頭火の静かな生活のなかでの発見が示されています。一読わたしたちは、芭蕉の次の名句を思い起こします。



よく見れば薺(なずな)花咲く垣根かな



芭蕉が深川の芭蕉庵で読んだ即事的な句でしょう。薺の花というのはほとんど人目につかない地味なものです。しかしよく見れば、確かに小さな花を咲かせています。これを見逃さない繊細な心に、〝造化〟の力に触れた驚きが感受されるのです。

井上神父はこの句について、



垣根に人知れず咲いているペンペン草が、はっと芭蕉の心を打ったのは、この名もない平凡な草が、まさにその平凡さを無心に生きぬいていることによって、大自然の生命の流れをそこに顕現させていたからに他ならない。(『風のなかの想い』一二八頁 傍点平田)



と語っています。芭蕉のいう「造化」とは、ここにいわれている「大自然の生命」ということだと思います。

この句と同様な味わいを持ったものが、人口に膾炙されている次の句です。



山路来て何やらゆかし菫草



「薺」の句が静的な観照のなかでの発見とすれば、この句は旅という動的な行為のなかでの発見という違いはあるにせよ、薺や菫が無心に咲く姿への感動という点で共通しています。垣根にひっそりと咲く薺、山路にぽつんと花開いた菫、どちらも誰かに見てもらいたいとか、もっと目立つ場所に咲きたいなどと、不平を言ったりはしません。造化に従い、己れに与えられた時と場所で、まさに「平凡さを無心に生きぬいて」精一杯の花を咲かせている。またその「ことによって、大自然の生命の流れをそこに顕現させて」いる。その姿に芭蕉は感動したのです。

井上神父は、次のようにもコメントしています。



菫は自分を表現している以上に、はるかに深く、みずからを生かしめている大自然のいのちの風を告げていたのである。芭蕉の心を打ったものは、このあるかなきかの小さな一輪の菫が告げている大自然のいのちの風だったのであり、そのとき芭蕉自身も、己れを生かしめているこの同じ大自然のいのちの風の中に、真の自分を生きていたはずなのである。(『まことの自分を生きる』五五頁)



薺にしろ菫にしろ、自分の人生を無心に精一杯生きることによって、結局は己れ自身を表現するのではなく、もっと大いなる「大自然のいのちの風」を指し示すことになるのだというのです。そして垣根や山路に小さな花を見て取った芭蕉や山頭火も同時に、大いなる命の風にともに吹かれ、「真の自分を生きていた」にちがいありません。



イエスはかつて、花咲くガリラヤ湖畔に立って人々に次のように語りました。



空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。・・・・野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。・・・・今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。(マタイ六・二六、二八、三〇)



名もない「野の花」にも神の十分な愛の配慮がなされているのだから、「まして、あなたがたにはなおさらのことではないか」(三〇節)と、イエスは神への信頼をわたしたちに促します。なによりイエス自身、身をもって神へのまったき信頼に生き抜いた方でした。

パウロは獄中書簡のなかで、次のように書いています。



キリストは、・・・・自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。(フィリピ二・六~八)



そして神は、このように生きて死んだイエスを復活させ、神の国に受け入れたのです。このイエスを信じ、イエスにならい、生老病死いかなるときも神への全幅の信頼に生きること、それがキリスト者としての在り方なのだと思います。


島 一木

福音短歌 その18

●神のパンは

天から降って来て

この世に 生命を与えるもの

(ヨハネ6:33)

●わたしが 生命のパンである

わたしのもとに来る者は

決して飢えない

(ヨハネ6:35)

●信じる人は 皆

永遠の生命を持ち

終わりの日に復活する

(ヨハネ6:40)

●わたしが与える パンは

この世に生命を

与えるためのわたしの 肉

(ヨハネ6:51)

●弟子たちの 多くは

「とんでもない話だ

聞いていられない」と言った

(ヨハネ6:60)


Re余白: ヨハネ福音書は、グノーシスに対して、一生懸命「人の子の受肉」ということを強調します。それは神が人となったという教義上のことより、わたしたちといっしょにいつも、寄り添って歩んでくれる神への感謝の表現なのだと思います。

その19

●生命を与えるのは

霊である 肉は

何の役にも立たない

(ヨハネ6:63)

●わたしが あなたたちに

話した言葉は 霊であり

また 生命である

(ヨハネ6:63)

●人の子は 必ず多くの

苦しみを受け 殺され

三日目に復活する

(ルカ9:22)

●後に従いたい者は

十字架をになって

わたしに従いなさい

(マルコ8:34)

●全世界を手に入れても

生命を失ったなら

なんの益になろうか

(マタイ16:26)

Re余白:四首目、それぞれに与えられた「日々の十字架」ってことですね。


●山の上で

心のみすぼらしさに気づいているひと よかったね

天の国は あなたのもの

いま お腹のすいているきみたち よかったね

お腹いっぱい食べられるようになるよ

泣いているあなたも 大丈夫

笑うようになるよ

笑っている ほらそこのきみ お気の毒

泣くことになるよ

お腹のでっぱって太っているきみも かわいそう

飢えることになるよ

お金持ちは かわいそう

それ以上 慰めようがないから


Re余白:「山上の説教」(マタイ5章)の有名な冒頭の口語化ですね。



比田井 白雲子

●それはかすかな風きてくれた ここ

●広い広い空がある ごらん

●喜びになるまで歩く

 月に一回、「余白の風」を読ませていただき、心がきれいになって、句が生まれます。テレジアさんのご絵でしょうか、今回もあるがとうございます。

 オグ・マンディーノ著『この世で一番の奇跡』(PHP文庫)を読み、とても感動。一人ひとりがこの世で一番の奇跡であることを知らされました。読んでいない方は、一読をすすめます。何か不思議な力が湧いてきます。90号の余白さんの句評も、同じものが流れているのを感じます。みんなが奇跡になったらこの世は天国。

追伸:アーノルド・トインビーが、「今から1千年後の歴史家が、この20世紀について書くときがくれば、自由主義と共産主義の論争などはほとんど興味が無く、歴史家がほんとうに心を奪われるのは、人類史上はじめてキリスト教と仏教が相互に深く心を通わせたとき何が起こったか、という問題であろう。」と言っているのを、今日読みました。

 余白さんが、そのような歴史上まれな立場におられるのを、うらやましくも光栄に思い、健康に留意され、ますます大道を歩まれることを期待します。

 そうすると、「南無アッバ」には、偉大な秘密が隠されていそうですね。

 私は、俳句で、いつの日にか、宗教をも超えるような境地にたどりつきたいと念じております。                 草々

Re余白:大兄のストレートに素直な作品、いつも好感をもって味わっています。「一人ひとりがそのまま奇跡!」すばらしい言葉ですね。また、トインビーの言葉もありがとうございます。恐縮です。大兄の姿勢、「俳句によって神に至ろう」と言った海藤抱壺を思い出します。


山根さんの聖書講座「クリスマス」 

小さき花

井上神父の「福音書を読む旅」、遠藤さんの「イエスの生涯」どちらも公生活から始まり、生誕にはふれていません。
紀元元年に、ベツレヘムでおとめからイエスが生まれたと言うのは,事実(史実)ではなくても,魂の真実と遠藤さんは書いています。
神と人との切れていた絆をつなぐ者としてイエスが生まれた,神の愛が示された、それこそ最大のプレゼントであり、クリスマスの意味です。
そして,互いに愛し合いなさいー神の愛を感じ、他者への愛を持つー貧しい人,孤独な人を特に思いおこし,愛を実践する。
クリスマスには人と人との愛の絆,愛すべき人へのプレゼントも含め、他者との絆を深くつくっていく事を大切にしたいと思っています。

聖ヨゼフはマリアさま,幼子イエスさまの陰にかくれていて目立ちません。でも、イエス様が最初にお父ちゃん(アッバ)と呼んだのはヨゼフ様。
イエスさまの公生活の頃にはヨゼフさまは亡くなっていました。ヨゼフ父ちゃんへの呼びかけと同じように、天の父をアッバとよびかけています。
そう思うとヨゼフさまに親しみを感じますね。


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Re余白:ヨセフ様

イエスがユダヤ教の厳しい父性原理を越えて、やさしい母性原理のアッバ神観を確立した背景には、もちろんガリラヤ地方という風土との関係が密接ですが、その原初的な要因は、ヨゼフ様の人柄にあったのかもしれませんね。
私自身ひとの親となり、また教育に携わる仕事をしてきて痛切に感じるのは、、どういう親にどのように育てられたか、ということが、子供の人生観にどのように影響するものなのか、その構造は複雑で簡単に解明できるものではないなあ、ということです。

しかし、おっしゃるように、ヨゼフ様ご自身が、アッバと呼ぶにふさわしい方だったのは間違いないと思います。


<後記>早いもので、今年も待降節となってきました。この1年を振り返り、みなさんはどのような心境でおられるでしょうか? 小生の方は、次男の受験から始まり、新しい受け持ちクラスの問題や様々な行事に追いまくられ、忙しい1年でした。

皆様におかれましても、恵み深いクリスマス、よいお年を迎えられますように、お祈りさせていただきます。(余白)
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