「南無アッバ」を生きる ホーム » 高校「倫理」キリスト教 »〝神の国〟のイメージ

〝神の国〟のイメージ  

ではいったいイエスの言った「神の国」とはどんなものだったのでしょうか? 前述したとおり〝この世〟に生活するわたしたちはいわば完全な神の国への途上にあるのですから、それをすでに体験した者として語ることはできません。
もう一度、前項で説明した『マルコ』一・一五のイエスの宣教の言葉に戻りましょう。

<時は満ち、神の国は近づいた。・・・・>

今度は「神の国は近づいた」と「神の国」が主語であることに注目したいと思います。
つまり、わたしたちが中心となって神の国とはどんなものなのかと議論したり、その実現のために努力したり(あるいは拒否したり)する前に神の国自らが、いわば向こうから〝近づいて来てしまっている〟ということが強調されているのです。

<また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。」>(マルコ四・二六~二八)

これは福音書のなかで〝成長する種のたとえ〟といわれているものです。
イエスは「神の国」を「土がひとりでに実を結ばせる」ようなものとして捉えています。
前述の聖句と同様、神の国は自ら働くという、いわば神の国の能動性・積極性が強調されているのです。
わたしたちが「夜昼、寝起きしているうちに」神の国の「種は芽を出して成長」しますが、「どうしてそうなるのか」はわたしたちにはわからない、というのです。
また、前項では「神の国はあなたがたの間にある」という句を単に心の中の問題として解釈するなら、〝神の国〟のリアリティを損なう、というようなことに触れました。
このことに関連する句として次のような言葉があります。

<「しかし、わたしが神の霊(ルカ一一・二〇では「神の指」)で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」>(マタイ一二・二八)

ここでははっきりと「神の国はあなたたちのところに来ているだ」と宣言されており、「時は満ち、・・・・」の句と同様に神の国の時間的な〝現在性〟が強調されています。
と同時に、イエスの奇跡や病人のいやし〓「悪霊を追い出している」、あるいはイエスの存在そのものから、神の国の〝現実性〟を主張するものと解釈できます。
ここで「あななたたち」というのは、直接にはイエスに反対するファリサイ派の人々を指しており、そういう人たちの上にも否応なく神の国は来ている、神の支配がはじまっているということになります。
ちなみに〝悪霊の追い出し〟ということは当時、イエスに限ったことではなかったようです。
医学の発達していない時代のことですから、どのくらいうまくいったかは別として、他の人が、病人のいやしや悪霊の追い出しをしたこともあった。
したがって注意しなければいけないのは、イエスが奇跡やいやしを行ったことが神の国の到来の”証明〟ではない、ということです。
事実イエスに反対する人たちは、イエスがこのような業を行えるのは悪霊の仕業だと考えました。(右の福音書のくだりを一般に「ベルゼブル(悪霊の頭)論争」といいます。)
イエスのこうした業を何の〝しるし〟と見るかが問われているのです。
イエス自身や福音書を書いた原始キリスト教会の人たちは、これを神の国到来のしるしと見ました。
関連記事


category: 高校「倫理」キリスト教

tb: 0   cm: 0

コメント

コメントの投稿

Secret

トラックバック

トラックバックURL
→http://yohaku5.blog6.fc2.com/tb.php/184-063801c0
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

日本人にわかるキリスト教を求めて

南無アッバの集い&平田講座

求道詩歌誌「余白の風」

最後の南無アッバミサ

全記事表示リンク

リンク

検索フォーム

▲ Pagetop