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自分の十字架を背負って  

そのベクトルを端的にあらわす言葉が福音書にないだろうか、このところ私はずっと思いめぐらしていました。そして次の聖句にたどり着いたのです。
「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」(マルコ8:34~37)
私は、イエスの教えの要がこの言葉に端的に表現されていると思うのです。
先に私は、トマス・ア・ケンピスの『キリストにならいて』が「イエスの言葉や生涯を黙想し、そのなかに自分を沈潜させることによってはじめて私たちは真の幸福──救いに至る」ということを主張している書物であると述べました。これは先にも引用したように、「私(イエス)に従う者は闇の中を歩まない」(同書1:1)という前提があることによって出てくる結論です。つまり、私たちの真の幸福は、「イエスに従う」ことにあるのです。そしてその具体的な方法論として、「黙想」(祈り)が必要なのです。
人はだれでも、幸せに生きることを望みます。人生の目的はそれだけだと言っても過言ではないでしょう。すべての人間のこの究極的な願いに応えようとするイエスは、「私に従う」ことを要求しています。さらにその具体的な手段が祈りだというのです。
若い頃の私はなんとなく読み過ごしてしまったのですが、このことは『キリストにならいて』の冒頭にはっきりと書かれているのです。トマスは絶えざる勉学と祈りと直感によってそれを見抜いていたのだと思います。この頃になってやっとトマスの言わんとすることが少しずつ解ってきました。
イエスに従う(ならう)こと。
そのためには祈りが必要であること。
新約聖書が具体的に私たちに要求していることは、この二点に要約されるのではないでしょうか。そしてこの二つの相互作用によって、私たちの自我は相対化し、真の幸福すなわち救いに至るのだ、というのが「福音」と呼ばれるものの内実なのです。この視点に立って、先に示したイエスの言葉、
「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」を吟味してみたいと思います。
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