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求道詩歌誌「余白の風」第189号 2011年9月発行  

*日本人の心の琴線にふれるイエスの顔を求め、福音を生きる

会員作品とエッセイ(*主宰コメント)

京都市  瀧野悦子
過去形になりし被災の悲しみを現在形にネジをまはしぬ
八月の空に平和の鐘が鳴るフランシスコの平和の鐘が
炎天に拳突き上げ南無アッバ
百合白しフォークを歌ひ南無アッバ

*①日本の心の典礼暦に刻まれ、繰り返し思い出すべきこと。「ネジをまはしぬ」が効果的。②自然を愛したフランシスコ・アッシジわが霊名。③力強い射祷。④「フォーク」世代にもマッチする「南無アッバ」今もギターが傍らに。


一宮市  西川珪子
天よりの声に応へる蝉しぐれ
敗戦忌少年老いて語り部に
木陰なきバス停に立つ長崎忌
子の走る風をはらみし捕虫網


秦野市  長谷川末子
赤とんぼ神の召さるる儘に飛び
雨に打たれ畠に伏せる落花生
登り坂両脇過ぐる秋の風
夜長く目覚めの時を楽しめり
蝉時雨精一杯の讃歌とも

虫の声を聞く夜長/顔を出す思い出/孤独の中で去った両親/姉妹の心に巣くう淋しさ/息子も親も淋しさを着ている/神様の御心に飛び込めない重さ/背に負われる毎日/平然と暮らしている厚顔/これも淋しい/愚かな自分を直視しよう/「助けてください」と心から祈ろう/そう出来たらと願う


稲城市  石川れい子
蜩の声に目覚めし夜明けかな
ひまつぶし残暑のみこむ昼の膳
いろは白にほへと木槿夕ちりぬ
聖母被昇天祭アヴェアヴェ・マリア
秋海棠渓流に添ひ群れ咲けり

 主宰「求道俳句集」選
末席の気楽さが好き夏の宴  栄一
天網に余命を委す法師蝉
三世代ミサに集うや聖母祭


八王子市  フランシスカ井上
聖霊の包みし中の分かち合い
訥々と内なるものを風に干す
十字架の向こうにいのち燦燦と
深深と黙せば風が語り寄る
平凡な一日でした南無アッバ


練馬区  魚住るみ子
リジューのテレーズ三六五の言葉朝毎に読む南無南無アッバ


名古屋市  片岡惇子
合歓の花寂しさ極み南無アッバ
露草の紺に負けたる宙と海
風鈴や最後の時を風まかせ
萩溢るこぼるる心母の掌に
ロザリオを繰る手に秋の忍び寄り
マリア像秋日の中に透けてゆき

今か、今かと待っていることがあります。すぐ実現されるべく隣りまで来ていますのに、足踏みしています。
これは、神様の計画なのかと、思っています。待っていることは、思いがけずいただく恵みですから。
がんを手術した二人の方が、これからどうなるのか、不安な状態でおられます。心を病んだ方が、つらい思いをしておられます。
この方たちが、私に、思いを話されました。ひたすら、恐れや、不安や、つらさを聴いていました。神様は、私にその時間を与え、三人の方のそばにいることを、良しとされているのかと、思っています。
三人の方のために、ロザリオを唱えています。蝉時雨が、いつのまにか虫の声にかわっています。


大和市  佐藤悦子
夜明け前セミの合唱ひびき合う義母命日や被昇天祭
仁淀川ホタルの明かり南無アッバ生命賛える自然うるわし
夏休みトビト、エステル、ルツ記読み旧約人の信仰学べり


豊田市 佐藤淡丘
大夕焼溜め息一つついてみる
こほろぎやゆきつもどりつたしかめつ
なにごとかまだ残りゐてつくつくし
一粒の雨にはじまる蓮の花
遠近をないまぜにして蝉時雨

 午前・教会。午後・裁判所。いったいぜんたい、それって何に?とお思いになるでしょう。この夏の名古屋での一日の行動記録であります。ある障害者のグループホームの泊りボランティアをしていた七月、初めて連続して二日間を勤務することになり、昼間の空いた時間の使い方を考えてのことでした。
 教会は勿論古くからのカトリック教会、平日の聖体訪問はどなたもいない静かな時間を満喫することができます。続いて裁判所。午後から行われる公判(刑事裁判)の傍聴であります。神に語りかけ、人間社会での法支配のありようを考えさせる、私なりの消夏法の一コマでありました。


蓮田市  平田栄一
日に一行『聖書ギリシア語入門』をこなせば二年半にて終えり
音楽のごとく旧約聞きており五分遅れの小金井行に

立待岬にて
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寄贈誌より
「野守」四五号  大木孝子
山國の蝶になりたや死を賭して
夏落葉うつくしき影ひき連れて
赤きロザリオ空に翳さむ小鳥の死

「日矢」五五九号  新堀邦司
将軍に献上の鮎解禁に
沙羅咲くや戒名持たぬ父母であり
太宰忌の灰色の雨降りやまず


「神様が主人公の私たちの人生」:井上洋治神父
――立川教会・輪の会主催講演会――会報より
 六月十九日(日)、風の家主宰の井上洋治神父様が八四歳というご自分の老いを見つめ、「一本の老木」という自作の詩を紹介しながら、講演してくださいました。

 学生時代に出会ったリジューの聖テレジアの霊性に惹かれて以来、生涯を通して聖テレジアの後姿を追いかけて生きてきたように思います。私は聖テレジアの弟子として八四歳という老年を迎え、長いマラソンの最後に競技場へ入ってきたような今、八四歳ならではの話をしたいと思います。
 「厳しい冬の青空を背にして葉を落とし
  たった一本でこんなところに立っている
  老木よ」、で始まるこの詩は風の家を始めた五十代半ばの張り切っていた時代に書きました。若い自分が寒さに震えて立っている老木の姿に感動して書いたのですが、今私はその老木になっています。外から老いを眺めることと、実際に老いを背負って生きていることは全く異なります。
 老いというのは若いときには自分のものだと思っていた視力や健康を少しずつ神様にお返ししながら生きているということです。人の為に何かする、役に立つという根底の生きがいすらお返ししています。若い人に“老い”というものをどうしても理解してもらえない、一人ぼっちになってしまうという恐れもあります。年のせいで団欒の中に入れない、大勢の中の孤独感は辛いものです。ついこの前までできていたことができなくなるのも辛いです。そうしたことで落ち込んだ時には地動説を唱えたコペルニクス的転換が必要です。
 アウシュビッツに収容されていた精神科医のヴィクトル・フランクル著、「夜と霧」は人間の限界状態の中で書かれてものです。自分が人に何ができるか、喜んでもらえるかということを考えていては収容所では生き延びることはできません。何もできないけれど、苦しいけれど、家族や友人が私にどう生きて欲しいと思っているか、その人たちの眼差しを感じられれば生き延びることができたというのです。
 私たちに何ができるか、役立つかを考えることが難しい時に、他者(神様)の眼差しを思い、その眼差しを受け止めれば、そこに人生の意味が現れてきます。現実に何もできなくなっても、他者の気持ちを受け入れるところに人生の意味があるのです。
 “自分が何をするか、社会で役立つか”ではなく、神様がその人を通して何を伝えようとしておられるのか、神が望まれることをする場が人生なのです。粗大ゴミになっていく自分になんの意味があるのかと思い煩わず、神が私という作品を作りそれを使って神の望みを示しておられるということに気付き、考えをそのように転換しなければ、老いの虚しさはなくなりません。
 聖テレジアは神が作られた大自然の中の小さな白い花になり、神が語られることを示していきました。 「ナムアッバ」と唱えてアッバ、お父ちゃんに全てを無心にお任せして生きていきましょう。
 「山路きて なにやらゆかし すみれ草」
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定例・南無アッバの集い平田講座九月二十四日(土)
*既刊「余白の風」の残部があります。お知り合いや伝道用に配布される場合、無料で差し上げます。

*「余白の風」誌入会案内は本ブログサイドバー参照
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