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同じベクトル──自我相対化  

初めて福音書を手にしたとき、『マタイ』や『ルカ』の冒頭にある系図やマリアの処女懐胎の記事を読んで、「こんな神話にはとてもついていけない」とがっかりした経験のある人は多いと思います。それは、上に述べたような福音書という文学類型の特殊性を知らず、一般の歴史書と同じ構えで読もうとする誤解から生じるものなのです。
というわけで、律法問題にしても、イエスが史実としてどこまで具体的に律法を否定ないし越えていたかは、簡単に結論は出せないのです。先に私は「安息日論争」に触れたとき(6/8記)、イエスは要するに「律法は、人のために定められた。人が律法のためにあるのではない」と宣言したのだと述べましたが、それはイエスの生き方全体として言えることであって、個々の律法をすべてどうでもいいものとしたという結論は単純には出せないのです。
以上のような福音書の特殊性に注意しながら、イエスの言葉や行いをたどっていくと、イエスは必ず個々の具体的な場面と人に応じて語っていることに気づきます。つまり仏教でいう対機説法なのです。現代のようにテレビやラジオを使って最大公約数的な大衆に向かって話したり、あるいは不特定多数の人たちを相手に本を書くというようなものではないのです。『マタイ』の「山上の説教」などはそのまま読めば一見、イエスが人としての生き方の一般原則をまとめて示したように思えますが、これとて一度にイエスが山上(『ルカ』では平地)で話したわけではなく、様々な状況、様々な人に語られた言葉を、マタイがまとめて編集したものです。
したがって、イエスの言葉を解釈するときは、どういう状況の中で誰に向かって語られたものなのかをよく考えなければなりません。病人や売春婦に語る言葉と、ファリサイ派やサドカイ派に語られる言葉は、当然違ってくるのです。イエスのある言葉を語られた状況を無視して取り出し、あたかもすべての場合に当てはまる普遍的原則のように受け取ることは大変危険なことです。
たとえば、「山上の説教」の中に、有名な次の言葉があります。
「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、すでに心の中でその女を犯したのである。もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。・・・・」(マタイ5:27~29)
男性でこの言葉に最初からつまずかない人はおそらくいないでしょう。このくだりを読んで、「こんな厳しいイエスにはとてもついていけない」と思う日本人は多いと思います。しかしこの言葉が実際、どういう状況の中でイエスの口に上ったかをわたしたちは考えてみなければなりません。
井上洋治神父の説によればこの言葉は、おそらく『ルカ』第21章から欠落した後、『ヨハネ』第8章に加えられた「姦通の女」のペリコーペのような状況の中で語られたものだろう、と思われます。(7:53~8:11参照)
当時の女性がユダヤ社会の中で、どんなに差別的で低い地位に置かれ、不当な扱いを受けていたかを想像すれば、「姦淫の女」に対するイエスのやさしいまなざしがいかに彼女を救うものであったかがわかります。と同時に、彼女を非難しようと集まっている男たちを上のような厳しい言葉をもって批判したであろうイエスの姿勢が理解できるのです。
こうしてイエスの言葉を対機説法的に解釈するなら、先に問題にした『ルカ』第10章の「善いサマリア人」における「律法の専門家」に対するイエスのアドバイスと、続く「マルタとマリア」でのマルタに対するアドバイスが異なることの意味が見えてくるように思います。
「善いサマリア人」のペリコーペでは、「律法の専門家」は「イエスを試そうとして」(25節)イエスに質問し、また「自分を正当化しようとして」(29節)「善いサマリア人」のたとえをイエスから引き出しています。こうした狭い自我を絶対化している「律法の専門家」に対しては、イエスはともかくも実践的な愛の行為を要求するのです。それは外面的な愛の行為がその行為者の内面に憐れみの心を起こし、自我を相対化させる──永遠の命を受け継ぐ──救いに至るというイエスの教えを示すものです。
それに対し、マルタのように心は隣人(イエス)へと向いてはいるものの、愛とは「いろいろのもてなし」のことなだという固定観念にとらわれ(この点では自我が絶対化している)、同じ行動をとらない隣人(マリア)への思いやりを欠いてしまっている場合にはイエスは、まず祈りをすすめます。
しかしどちらの場合にも、なんとかして相手の自我を相対化させようとするイエスの配慮、苦心、愛が読み取れるのです。それは、私たちの心に自我相対化が起こらなければ救われることがないからです。
ある場合には行為を要求し、ある場合には祈りをすすめるイエスの姿は、福音書の他の箇所にも散見されます。
さらに、まるで正反対に見える行為を要求する場合もあります。らい病を患っている人をいやした時は、「だれにも、何も話さないようにしなさい」と命じ(マルコ1:40)、悪霊に取りつかれたゲラサの人をいやした時は、「身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい」と命じています(同5:19)。イエスについて行きたいという願いを聞き入れる場合もあるし、禁止することもあります。これらの違いについて必ずしも福音書には明確な理由が記されてはいないのですが、イエスが常に対機説法的言動をとったことを踏まえれば、うなずけることのように思います。そしてイエスの対機説法が目指したものはすべからく、相手の自我相対化を促すためであった、というのが私の思い至った結論なのです。
キリスト教では、神の言葉である「イエスに聞く」「イエスを知る」あるいは「キリストに従う」ということが大切とされます。それはこれらの物言いが、すべて同じベクトル──自我相対化へと私たちを向かわせるものだからです。
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