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イミタチオ・クリスティ  

中世以来キリスト教界で聖書の次によく読まれてきたといわれている、修道士トマス・ア・ケンピスの書いた『キリストにならいて』(イミタチオ・クリスティ)という書物があります。この本はそのタイトルから「キリストにならえ」という主題があまりにも印象的で、若い頃は、これはとてもついていけない、と早合点してしまったのですが、最近読み返してみてトマスの考えの中心は、どうもそういうところにあるのではないと思うようになりました。
たとえば、この本の冒頭には次のよう書いてあります。
「私に従うものは闇の中を歩まない、と主はいわれる。このキリストのことばは、もし本当に私たちが光にてらされ、あらゆる心の盲目さを免れたいと願うならば、彼の生涯と振る舞いとにならえと、おしえるものである。それゆえキリストの生涯にふかく想いをいたすよう、私たちは心をつくして努むべきである。」(第一巻第一章1 岩波文庫訳)
トマスは、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(ヨハネ8:12)というイエスの言葉を引用して、もし私たちが幸福になりたいのなら、イエスの「生涯と振る舞いとにならえ」と教えます。そしてそのためには、まず「キリストの生涯にふかく想いをいたす」ことが大切であるというのです。この部分は別の訳では、「だから私たちはイエズス・キリストのご生涯を黙想することをもって、第一の務めとすべきである」(カトリック教会認可 光明社版)となっています。
つまりトマスが強調していることは、ともかく何か善いこと・立派なことをしなさいという世間一般の道徳ではなく、まずイエスの言葉や生涯を黙想し、そのなかに自分を沈潜させるということなのです。そのことによってはじめて私たちは真の幸福──救いに至るのだ、といっているのではないでしょうか。
先に私たちは、『ルカ』の「善いサマリア人」のたとえで「律法の専門家」には愛の実践を勧めたイエスが、続く「マルタとマリア」では愛の実践以前にまずイエス──神の言葉に耳を傾ける──祈ることをすすめる、という文脈を読み取ってきました。ここで私たちは、こうしたイエスの言葉や行いに戸惑いを覚えるのではないでしょうか。いったい愛と祈りはどちらが先なのだろうかと。ある人には愛の実践を要求し、ある人には祈りをすすめる、これはどういうことなのでしょうか。
イエスの言葉の矛盾。この問題を考えるときまず私たちが考慮しなければいけないことは、イエスの言葉はすべて対機説法だということです。これは私の心の恩師、井上洋治神父が常々強調されていることです。
どういうことかというと、私たちが聖書を読むときしばしばぶつかる困難は、たとえば福音書のなかでイエスが語ったAという言葉と別のBという言葉とがまるで正反対のことを言っていることが少なからずあるからです。
ひとつ例をあげましょう。
「すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」(マルコ7:18~19)
この言葉は、イエスがユダヤ律法の食物規定を否定していることを意味します。ところが『マタイ』の並行箇所では次のようになっています。
「すべて口に入るものは、腹を通って外に出されることが分からないのか。・・・・しかし、手を洗わずに食事をしても、そのことは人を汚すものではない。」(15:17,20)
さらに『マタイ』第5章の有名な「山上の説教」では、イエスの次のような言葉が残されています。
「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消え失せるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。」(5:17~18)
この『マルコ』と『マタイ』の並行箇所からイエスが、食物規定に関する「昔の人の言い伝え」──口伝律法を否定していることは明らかです。しかし、モーセ五書の成文律法については『マルコ』はイエスが律法を否定した、少なくとも律法を越えたと見ているのに対して、『マタイ』はそうは見ていないのです。マタイが『マルコ』を参照して福音書を編集していることは明らかです(『マルコ』の90%以上は『マタイ』に含まれています)から、マタイが『マルコ』の古い伝承から「すべての食べ物は清められる」という言葉を故意に削ったと考えられるのです。これは、マルコとマタイの立場の違いを反映しています。つまり、マルコの福音書編集の意図は、異邦人への伝道にあり、マタイはユダヤ教からの改宗者を対象として福音書を編集したという事情があるのです。
しかしこうした編集史的な問題はあるにしても、だから『マルコ』より『マタイ』、『ルカ』、さらに『ヨハネ』へといくに従って真実のイエス像から遠ざかっていくのだ、というふうに単純には結論できません。そこが面倒なところです。古い方が真実に近いという推論は、考古学的な見地からは言えても、こと福音書という特殊な文学類型を問題にする場合は必ずしも当てはまらないのです。というのは福音書が、史実をできるだけ忠実に伝えようとする歴史書や伝記ではなく、史実を元にしながらも「イエスはキリストである」という信仰を宣言することを最大の目的にした書物だからです。このことは、一番古い『マルコ』の最初の一行が、「神の子イエス・キリストの福音の初め」(1:1)というキリスト教の端的な信仰宣言で始まっていることからも明らかです。
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