「南無アッバ」を生きる ホーム » 高校「倫理」キリスト教 »キリストに従う

キリストに従う  

ここで、これまで述べてきたことを簡単にまとめておきたいと思います。
私はきわめて個人的な体験を通してではありますが、人が救われるためには自我相対化が必要である、ということに気づかされました。それは、キリスト教詩人・八木重吉の詩や、良寛の歌からも読みとれる救いの法則のように思われました。
このことをまず、キリスト教のアガペーの愛を巡って考えてみることにしました。
私たちは、『ルカによる福音書』第10章の「善いサマリア人」のたとえから、自我相対化が他者への憐れみを生み、それが自然に愛の行為となって流れ出ること、またその逆もありうるということを読み取りました。
しかしだからといって、愛の実践にこだわれば自我絶対化におちいり、愛を実践しなければ自我の相対化も起こらないという、〝愛と自我相対化のジレンマ〟の問題に突き当たったのです。そしてこのジレンマの解決の糸口が「善いサマリア人」のあとにルカが続けた「マルタとマリア」の話にあるということに気づきました。このペリコーペでイエスが私たちに示唆していることは、具体的な愛の行いの前にまず、「神の言葉を聞く」ということが大切なのだ、ということでした。
その神の言葉は、新約ではイエスにおいて実現し、凝縮されているというのがキリスト信仰だったわけです。神の言葉、神の御心はイエスにおいて実現しているのですから、そのイエスに聴くことによって、自我は相対化し、救いに至るのです。
ここまで見てくれば、『ヨハネによる福音書』の冒頭の言葉が大変大きな意味を持っていることがわかります。
「初めに言(ロゴス)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」(1:1、2、4、14)
さて、救いに至るための自我相対化の過程では、「神の言葉を聞く」あるいは「イエスを知る」ということが大変重要であることはわかってきたのですが、ここでもう一歩進んで、この場合の「聞く」あるいは「知る」ということはどういうことなのか、次に考えてみたいと思います。というのは、少なくとも聖書にいう「聞く」ことは単に聞き流すことでもないし、「知る」ことは単に知識として知ることでもないと直感するからです。
では、神の言葉であるイエスに聞き、また知るということはどういうことを意味するのでしょうか。
先日のミサで、次のような共同祈願が朗読されました。
「恐れることなくキリストに従う力をわたしたちに与えてください。つねに喜びをもって、神の国の福音を告げることができますように。
神よ、あなたの道を示してください。」(年間第13主日C年)
私は、「恐れることなくキリストに従う」という冒頭の一文にハッとしました。というのは、この祈りは、キリストに従おうとすれば、恐れを抱くことが普通なのだ、という前提の上でなされていると思ったからです。
私たちはキリスト者として、「キリストに従う」ということを、どういう意味に受け取っているでしょうか。
そう言えば、キリスト教会の「信仰宣言」にも、具体的なイエスの生き様は出てきません。
ですからややもすると私たちは、鸚鵡返しのように信仰宣言を唱えていれば、それでイエスを信じているという錯覚に陥ってしまうことがあるのではないでしょうか。そういうとき、ちょっと大きな試練が来ると、今までの自分の信仰はなんだったのだろうと、落胆してしまうのです。私たちは、しばしば、自分の信仰の内実を検証してみる必要があるのではないでしょうか。
関連記事


category: 高校「倫理」キリスト教

tb: 0   cm: 0

コメント

コメントの投稿

Secret

トラックバック

トラックバックURL
→http://yohaku5.blog6.fc2.com/tb.php/179-7167d2cc
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

日本人にわかるキリスト教を求めて

南無アッバの集い&平田講座

求道詩歌誌「余白の風」

最後の南無アッバミサ

全記事表示リンク

リンク

検索フォーム

▲ Pagetop