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日本人にわかるキリスト教を求めて

26May2012+011_convert_20120623181132_20120623222548.jpg井上洋治神父は、遠藤周作氏と共に、日本人の感性で正直に受けとめられるキリスト教を一生をかけて模索し、1986年「風の家」をはじめました。このサイトでは、「風の家」運動を引き継ぐ平田栄一が「求道俳句」ほか、日本人キリスト者の道を模索する試みを紹介していきます。お問い合わせ 略歴 著書

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08/12のツイートまとめ  

yohaku5

一句一想「新約聖書」この猛暑は一体何なんでしょう?!仕事がはかどらないのは、この気候のせい??そろそろお盆だし、まあいいか、などと言い訳をしつつ、仕事に飽きてきたら、聖書を捲る。これは一服の清涼剤!ホントです。
08-12 09:44

@divinemercyJP 内山神父様、懐かしいです。浦和教会でお世話になり、うちの二男は、内山神父様のお名前をいただきました。四半世紀前になります。よろしくお伝えください。
08-12 10:03

それも、小難しい神学(それはそれでミステリアスで楽しいものなのですが)は、この際抜きにして、聖書、とくに福音書を一句一想、勝手読みしていきます。
08-12 10:12

お盆休みでもどこにも出かけずお暇な方、寝苦しい夜に一人、PCに向かっているあなた、よろしかったらおつきあいください。合いの手は自由、批判はご無用!
08-12 10:13

マタイ17:23 【「(人の子は)・・・・殺されるが、三日目に復活する。」弟子たちは非常に悲しんだ。】イエス様が復活するということが、どういうことか分らなかったお弟子たちは、主が殺される、いなくなってしまう、ということにだけに心を奪われてしまいます。
08-12 10:14

ちゃんと、「オレは復活するんだよ!」と言っているにもかかわらず、です。「・・・・復活する」・・・・悲しんだ。「・・・・復活する」・・・・悲しんだ。このイエス様の復活予告(将来)とお弟子たちの気持ち(現在)との間には、深い溝があります。
08-12 10:15

そしてこの溝は私たちの現実を言い当てている。どんなにすばらしい将来が保証されている、といわれても、「そんなバカな・・・」と不信を抱き、いや、そこまで思いを至すこともなく、目の前の不幸にばかり目が行って、右往左往するのです。
08-12 10:19

相変わらず非文学的な文体、などというと怒られてしまう!?(誰に??)かもしれませんが、聖書はこういう朴訥な文体ゆえに、いろいろ想像して楽しめる?!(こういう姿勢もまたどなたかからお叱りを受けるかな?)いや、現在の自分に引き付けて解釈できる。
08-12 10:50

@divinemercyJP ありがとうございます。
08-12 10:53

なんだ、勝手に解釈してるだけじゃないか、とまたお叱りを受けるかもしれませんが、神学的にいうと、こういう風に今、ここにいる自分に語りかけてくる言葉として、御言葉を受け取ること、それが「実存的解釈」であり、「非神話化」ということだと思います。
08-12 10:54

マタイ18:3b-4【子供のようにならなければ、けっして天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が・・・・】聖テレジアで有名な「幼児の道」とは、具体的には、この句にあるように、「自らを低くする」ということでしょう。
08-12 13:29

そうすると私たちの脳裏には、「謙遜」という言葉が浮かんできますし、事実、テレジアの語録などにも「謙遜」が多くあらわれてきます。ただ、日本語に言う「謙遜」とはちょっと違う感じもするんですね。
08-12 13:34

どこかで勘違いしている。それはイエス様が例に出した「子供」って、ほんとうに「謙遜」だろうか?って考えるとわかる。むしろ普通の子供=たぶん2,3歳から小学校低学年くらいか=を想像してみるといい。うちの子供が小さい時を思い出してもわかる。
08-12 13:43

そう、子供というのはけっして謙虚ではないんですね。わがまま、ジコチュウというのが自然なんじゃないでしょうか。うちの子だけじゃないと思うんです。そういう子供が社会性を身につけていく中で謙遜を覚える・・・・。
08-12 14:28

そう考えるのが普通です。なのに、イエス様は「子供」=「自らを低くする」と結びつけた。これはどうも、私たちが「謙遜」と言っている意味と違う特性を、イエス様は「子供」に見ていたんじゃないか。
08-12 14:29

それでここだけでなく、イエス様が「子供」をどう見ていたかを、あちこちの個所から推測してみましょう。
08-12 14:36

そもそもこの節を含む段落マタイ18:1-5は、マルコ資料です。二資料説に従えば、マタイはマルコを見ながらマタイ福音書を書いたわけですから、もとはマルコにあるとみるのが一般的でしょう。
08-12 14:46

そこでこの並行個所をマタイとマルコでくらべてみましょう。マルコでは9:33-37.イエスから話しかけています。マタイでは弟子たちの方から直接、天の国でいちばん偉いのはだれか、聞いています。
08-12 14:55

@mari_nee どうもどうも。はい、これからそういう話に持っていく所です。乞うご期待。ってか、先に半分言われちゃったかな?
08-12 15:47

そのあと、マタイでは省かれて(別の個所に移されて)いますが古いマルコでは、イエスは12人に、「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」と言って、子供が登場する。
08-12 15:50

ここに一つのポイントがある。つまり子供は「すべての人の後」の者の代表と見られているのではないか。わかりやすく言えば、取るに足りない者ということ。「人に仕える者」というのは、先ほどの「謙遜」に結びついてしまって、また誤解を生むが、身分の低い者と受け取れば、意味が通じてくる。
08-12 15:50

つまり、「子供のようになる」とは、自分が小さい者であるとの自覚(卑小性)ということが一つの意味として語られていると思う。まあ、実際の子供にそういう自覚はあるかないかは分らないが・・・・。
08-12 15:51

その後マルコでは、実際子供を抱き上げたイエス様(マタイでは立たせるだけで、抱かない=マタイはイエス様のこういう人間臭さを払拭してしまう、残念)が、一人の子供を受け入れる=イエスを受け入れる=神を受け入れる、という等式を示す。
08-12 15:52

ここでは、先ほどの「小さい者」を受け入れなさい、というメッセージが語られているのはもちろんだが、そういうヒューマニズムの勧めのような部分ばかりに気をとられると、またあの「子供」が見えなくなる。
08-12 15:53

弱い者いじめ、仲間はずれはいけません。みんな仲良くしましょう、というのは、実社会では大切だし、教会がそういう使命を担ってきたところもあろうし、その淵源はイエス様の言動にあるとは思う。
08-12 15:53

しかしそれよりもっと根本の所をイエス様は語ったのではないのか。さっき触れたように、社会性を身に付けた人間の「謙遜」ではなく、ときに「弱い者いじめ」や「仲間はずれ」喧嘩もするような「子供」でも本質的に持っているもの、それをイエス様は示したかった。
08-12 15:55

しかもそれなくして神の国には絶対に入れないもの、それはなにか?わたしはこのマルコのペリコーペ(段落)の最後の繰り返しに注目します。すなわち「受け入れる」という言葉が4回も使われているということです。
08-12 15:56

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