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原初的な体験  

このイエスにつながっていれば、私たちも必ず救われるのだ、というのが原始キリスト教団の人たちの原初的な体験だったのです。旧約以来の多くの律法は、イエスの人格の中にすべて実現しているからです。
神の言葉を文字に書かれた律法ととらえ、それを自力で実行して救いに至ろうとする試みは、けっきょくファリサイ派のような自己絶対化を生んでしまいました。自己相対化が救いの条件であるならば、ファリサイ派や律法学者の態度は最も救いから遠いといわざるを得ません。
ではどうすれば自己が相対化するか、それはイエスの人格につながることによる、というのが新約聖書の著者たちが共通して指し示している救いの秘訣です。
「永遠の命とは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネ17:3)
この聖句では、「唯一のまことの神」を知ることと「イエス・キリスト」を知ることとが、別のことのように読めますが、キリスト信仰においてはこの二つはイコールだと受け取って差し支えないでしょう。つまり、イエスを知ることは神を知るということなのです。そしてそのことが永遠の命──救いに至る、というのがキリスト信仰です。
イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。・・・・わたしを見た者は、父を見たのだ。・・・・わたしが父の内におり、父がわたしの内におられる・・・・。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられる・・・・。」(ヨハネ14:6~7、9~11)
「わたしと父とは一つである。」(同10:30)
キリスト者でない方はこうした言葉を聞くと、もしこれがイエス自身から出てきたものとすれば、人間としてなにか大変不遜な感じがするのはないでしょうか。自分が神と「一つ」だとはっきり言っているのですから。イエスが十字架に追いつめられたのは、こうして「神を冒涜する者」と受け取られたからです。しかし私は、これらの「イエスは・・・・と言った」という文体はとりあえず、福音書記者ヨハネがイエスについて語った信仰告白と受け取っておいてよいのではないかと思うのです。
その上で、福音書に残されたイエスの言動を自分のなかで醸成し、繰り返し吟味してみること、内村鑑三の言葉を借りれば「実験」してみること、そういう作業(これが祈りにつながることは後に詳述します)をたんねんに続けていくことによって、ヨハネの告白にどういう根拠があったのか、理解できるのではないかと思うのです。
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