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神の御心  

安息日規定はモーセの十戒にある最重要な律法です。いわばユダヤ教を代表するものです。ということは、このイエスの言葉は、「律法は、人のために定められた。人が律法のためにあるのではない」と読んで差し支えないでしょう。
これを現代のわたしたちの感覚に置き換えて、「法律は人のために定められた。人が法律のためにあるのではない」と言ってしまえば、「そんなことは当たり前だ」ということになります。しかし、イエスが現れた当時のユダヤ社会は、そういう感覚ではまったくないのです。安息日規定ほか何百とある諸々の律法を金科玉条のごとく厳密に守ることこそ、神との契約(旧約)の誠実な履行であり、ついにはイスラエルの(政治的)救い──ローマからの解放をもたらすものなのだ、という信念が一般的だったのです。まさに「人が律法のためにある」のが当たり前の社会だったわけです。
ですから、安息日に片手の萎えた人をいやした──働いたイエスを見て、「ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた」(マルコ3:6)という記述は、けっして誇張ではないし、イエスに対する彼らの単なるやっかみでもないのです。イエスはそれまでのユダヤ教を根底から否定し、社会の秩序を乱す過激な危険人物と受け取られても仕方なかったわけです。このことが、のちにイエスが十字架にかけられる宗教的・政治的理由なのです。
とはいえ、ユダヤ人が「神の言葉を聞く」こと=あらゆる律法の厳守と受け取ったのに対し、イエスは「律法などどうでもいい」と言ったわけではありません。律法の根底にある神の御心(意思)、また、律法を守ることの根底にある人間の心を問題にしたのです。
私たちが今手にしている新旧約聖書に収められているたくさんの文書。その執筆年代には1000年もの幅があり、著者も書かれた文化的背景も様々です。しかしこの2000ページにも及ぶ分厚い合本のなかに脈々と流れ、通奏低音の響きのように全体として私たちに指し示しているものがあります。それは、神は人間に常に呼びかけ、愛を持って私たちの日常に介入してくるという事実です。この一点だけは、旧約から新約を通して否定することのできない主張です。
「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くの仕方で先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。」(ヘブライ1:1~2)
旧約以来の神の言葉はイエスに委ねられ、そればかりでなく、イエス自身が神の言葉(ロゴス)となって、現実世界のなかで神の国到来の徴として奇跡を行い、罪を赦し、病人を癒したのです。神の創造的な言葉は、イエスにおいて、イエスによって、この現実世界・歴史のなかに介入し、活動し、地上に救いをもたらしたのです。その喜びの知らせが、「福音」です。
「わたしが天から下って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心とは、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」(ヨハネ6:38~40)
神の言葉としてのイエスの生涯に一貫しているもの、それは神の御心を行うことでした。
前述したように、イエスは神の前に完全に透明な水晶のような方でした。神に対して完全な自己相対化──絶対無化がなされていたがゆえに、神の意志をそのまま実行することができたのです。それが実現できたのは、キリスト信仰においては、歴史上イエスただ一人だけである。それが、「イエスが唯一の救い主(キリスト)」というときの「唯一」の意味です。
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