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神の言葉を聞く  

上に述べてきたように、イエスに対する最高のもてなし──イエスへの隣人愛は、イエスの「話に聞き入る」ことでした。イエスをキリストと信じる信仰に立つならばそれは、「神の言葉を聞く」ことに相当します。
イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」(ルカ8:21)と言いました。この句に対する『マルコ』の並行箇所では、「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」(3:35)と記されています。また、『ルカ』の別の箇所(L資料)でイエスは、「幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である」(11:28)とも言っています。『ルカ』の文脈では、「神の言葉を聞く」ことは、具体的な愛の行いの前提になっているのです。
マルタは、いわば善意の思い込みにより、〝行いの愛〟に先走り、「いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いて」、その結果「多くのことに思い悩み、心を乱して」しまいました。それは、まず「神の言葉を聞く」という大前提が欠けていたからなのです。
考えてみれば、「神の言葉を聞く」ことは、イエス以前のユダヤ教でも第一のこととされていました。有名な「シェマの祈り」は、次のように始まります。
「聞け(シェマ)、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(申命記6:4~5)
日本では、百聞は一見に如かず、といいますが、ユダヤ教では「見る」ことよりも「聞く」ことの方が五感のうちで重視されているという話を昔、ユダヤ教の研究者から聞いたことがあります。まず神の言葉を聞き、それに忠実に従うことがユダヤ教の根本にあったのです。そして旧約では、その「神の言葉」とは具体的に、十戒以下の様々な律法を守ることだったわけです。
ところが、ファリサイ派や律法学者はいわゆる形式的律法主義に陥っていったのです。イエスは彼らを厳しく批判しました。
「あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。薄荷や芸香(うんこう)やあらゆる野菜の十分の一は献げるが、正義の実行と神への愛はおろそかにしているからだ。」(ルカ11:42)
「あなたたち律法の専門家も不幸だ。人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとしないからだ。」(同11:46)
律法を形式的に守っていることに留まって、その根本に流れているはずの神への愛や人に対する憐れみを欠いてしまったのです。
「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。」(マルコ2:27)
いわゆる「安息日論争」でのイエスの言葉です。ちなみにこの言葉は、相当疑り深い聖書学者でも、間違いなくイエス自身の口から出たものだと認めている、数少ない言葉の一つです。ということは、イエスの教えの独自性が色濃く出ている言葉だと判断してよいでしょう。
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