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ルカの配置  

ではどうすれば、私たちの自我は相対化するのでしょうか。そのヒントも聖書のあちこちに見いだすことができます。
しつこいようですがもう一度、イエスと「律法の専門家」のやりとりを振り返ってみましょう。『ルカ』のこの箇所は、イエスの教えの中核をなすものであり、キリスト者の生き方に重大な影響を与えるものだからです。
「律法の専門家」の最初の質問は、「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるのでしょうか」というものでした。ただし、この問いには「イエスを試そうとして」という企みがあります(ルカ10:25)。また、「わたしの隣人とはだれですか」と問い返すときには、「自分を正当化しよう」という意図に立っています(10:29)。つまり、「律法の専門家」には最初から、イエスがどんな答えをしたとしても、それを本気で実行しようという心はなかったのですね。さらに、「善いサマリア人」のたとえを聞いた後も、イエスに、「あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」と尋ねられたとき「律法の専門家」は、遠回しに「その人を助けた人です」と答えています。正解は明らかであるにもかかわらず、三人目の「あのサマリア人です」とは言いません。この時点になってもユダヤ人である「律法の専門家」は、サマリア人に対するこだわり、嫌悪、民族的偏見──狭い自我から抜け出てはいません。彼にとってはやはりこれまで学んできた律法や言い伝え、自分の生き方──自我が絶対だったのです。それをなんとか「正当化し」たかったのでしょう。
しかしイエスは、こうした「律法の専門家」の心情を知った上で、「行って、あなたも同じようにしなさい」と言うのです。「あなたも助けを必要としている人の隣人になりなさい」とすすめるのです。そうすれば「永遠の命を受け継ぐことができる」のだと。
イエスは、愛の根底にスプランクゾマイする心、はらわたがちぎれるほど憐れみを感じる心が必要であることを、十分知っていたはずです。にもかかわらず、「あなたの心が自然にスプランクニゾマイする──憐れみの心が沸くまで待ちなさい」とは言わなかったのです。ともかくも、「行って、あなたも同じようにしなさい」と助言します。
ここに私たちは、自我の相対化が憐れみの心を生み、そこから愛の行為が自然に生まれるということとは逆の経過──外面的な愛の行為がその行為者の内面を変化させ、憐れみの心を起こし、自我を相対化させていくという経過をたどって、ついには救いに至る──「永遠の命を受け継ぐ」のだというイエスの教え・主張を読み取ることができるように思います。
考えてみると、このあたりは私たちにとって大変難しい問題です。前述したように、愛の実践にこだわれば愛が律法化し、けっきょく自我の絶対化を招きます。しかしともかくもイエスが奨めるように愛を実践しなければ、自我は相対化していかないのです。この愛の実践と自我の相対化のジレンマを解決することはできないのでしょうか。もしそれが不可能だとすれば、イエスの教えは矛盾であり、普遍的でないということになるでしょう。普遍とは、いつ・どこでも・だれにでも妥当するものだからです。
この〝愛と自我相対化のジレンマ〟の解決を巡って私は幾度も挫折体験を繰り返しながら長い間、聖書のなかを彷徨してきたように思います。そしてその解決の糸口が意外にも、「善いサマリア人」の話に続く、福音書記者ルカが示した文脈にあることに気がついたのです。まさに〝灯台下暗し〟とはこのことです。
ご存じの読者もいるかと思いますが、今私たちが手にしている四つの福音書は、イエスの生涯そのものを時間の経過に忠実に記録した歴史書ではありません。反対に、嘘八百を並べた創作でもありません。それぞれの福音書記者がイエス死後の口伝やさまざまな資料を取捨選択し、「イエスはキリスト(救い主)である」ということを証言するために、それぞれの視点から編集した、歴史書でも小説でもない「福音書」という特殊な文学形式なのです。
このことを確認した上で、「善いサマリア人」に続けてルカが配置した「マルタとマリア」の話を取り上げたいと思います(ルカ10:38~42)。ちなみに私が確認したかぎり、この二つのペリコーペ(段落)の連続にルカ以後の後世の手が加わっていないことは確実と考えられます。つまりルカは何らかの意図をもって、この二つの話を続けて配置したのだと理解してよいわけです。そしてそのことから得られる結論はおそらく、新約聖書全般にみられるイエスの言動と照合して、けっして矛盾するものではない、というのが私の確信なのです。
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