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はらわたがちぎれる  

しかし、私は想像するのです、「善いサマリア人」のたとえをイエスから引き出したあの「律法の専門家」は、その後どうしただろうかと。はたしてイエスに、「行って、あなたも同じようにしなさい」と言われたとおり愛を実行して、「永遠の命を受け継ぐ」ことができたのでしょうか。
ここで今度は、たとえのなかの「サマリア人」の行動に注目してみましょう。
彼は、「追いはぎに襲われた人」にとって必要な処置を淡々と行い、しかも自分の本来の仕事も忘れず、翌日には名前も告げず出かけて行きます。(ルカ10:33~35)「サマリア人」の姿勢は、いかにも自然体で、隣人愛に対する気負いや恩着せがましいところもまったくありません。たいへんカッコイイわけです。この姿勢の根拠はどこにあるのでしょうか。
キーワードは、33節の「憐れに思い」という言葉です。これは「スプランクニゾマイ」というギリシャ語で、「はらわたがちぎれる」といった、強い意味をもっています。つまり、「サマリア人」は追いはぎに襲われ半死半生の状態になっている人を見て、〝思わず〟手を貸さずにはいられなかったのです。相手がだれか、どういう素性の者か、そんなことを考える以前に、憐れみの感情即行動というパターンをとったのです。「スプランクニゾマイ」は、理性的な判断以前の自然感情です。この強い憐れみの心があったからこそ、自然体で隣人愛を実行できたのです。
そして私は、「スプランクニゾマイ」する心、憐れみの心は、自我が相対化していなければ起こらないのではないかと思うのです。なぜなら仮に、「サマリア人」が自分の用事の緊急性や重大性にこだわって自我を絶対化していたなら、倒れているけが人に気がつかなかったか、あるいは気づいても、あの「祭司」や「レビ人」のように、見て見ぬふりをしたに違いないからです。彼らは、自分たちの意識の中では、神に仕え、神を愛しているがゆえに、(けが人が死んでいるかもしれないので)死体の汚れに触れてはいけないという、祭司の義務───律法に忠実に従おうとしたのでしょう。つまり、どんな状況にあっても律法を守らなければ、という自我にしばられていたのです。
自我絶対化の心を〝かたい心〟にたとえれば、自我相対化の心とは〝やわらかな心〟といってよいでしょう。それは自我が中心にあって「~せねばならぬ」というとらわれから解放された心です。律法主義の対極にある心です。ですから、わたしたちは気をつけなければいけません。「善いサマリア人」のたとえはたしかに〝愛の実践〟をすすめてはいるのですが、だからといって「私は今日こんな愛の行いをした。明日はあんなことをしよう」と愛を数え上げたり、反対に「私は何も愛を実行できない」といって落ち込むならば、それはけっきょくは自我中心の形だけの愛の実践にこだわっているのであって、自我相対化───〝やわらかな心〟からはほど遠いものとなってしまうのです。愛を強引に実行しようとすればするほど、愛の律法主義化───自我絶対化に陥ってしまうのです。
「エルサレムのおとめたちよ
野のかもしか、雌鹿にかけて誓ってください
愛がそれを望むまでは
愛を呼びさまさないと。」(雅歌2:7、3:5、8:4)
この旧約の歌は、直接的には恋人同士の恋愛をうたったものですが、愛というものは自然に熟すのを待つべきもの、と見ている点で、大変示唆に富んでいます。
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