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第12回 四谷講座ノート 2011-4-30/2.井上神学の救済論(5) --隠れキリシタン神話の変容過程  

講師:平田栄一(二〇一一・四・三〇 四谷ニコラバレ)

前回まで、テキスト=『心の琴線に触れるイエス』(緑本)p.20からの佐古・井上対談を、引用元の『パウロを語る』まで遡りながら、お二人の神学の違いから、井上神学の特徴を探ってきました。今回は、その最後の所、p.23「血」の話が出てきた所からです。

【緑p.23.7~朗読、以下同様】「生臭い血」を強調するのではなくて、「復活に包まれた十字架」、私見ですが、「犠牲」や「贖罪」といわれてきたことを否定するのではないが、それらを包含する「復活」を強調した方が、日本人への伝道には良いという意味かと思います。「秋の空」「平安の中」「御父の静寂に包まれた十字架」等々、これらは、前回触れた『日本カトリシズムと文学』(戸田義雄編)に載っているシンポジウムの「女の子」の話、そのちょっと前でも、同じようなことを神父様が言っています。井上神学と北森神学の違いを指摘した所で、緑本でも、このあとp.52あたりで出てきますが、そこでは端折ったところを含めて、お読みします。

【戸田p.195~】その絵【プリントを回す】これは、十字架のヨハネの詩集の表紙絵image007.gifですが、もう一枚のこちらは、image005_20110503190925.jpgそれをヒントに二十世紀のスペインの画家ダリが描いたものです。

十字架、それは大変なことだし、キリスト者にとって大事なことなんですが、それを「たいへんだ!神の子が磔になって、おまえたちの罪のために今も血を流しているんだぞ!」っていうのは、それはそうとしても、どくどく血を流した所で終わるんじゃなく、それを全体としてそっと包む――おまえも大変だったなあ、御苦労さま!っていう感じでしょうか、そういう御父の暖かさ、アッバの安らぎが最後は欲しい、ということでしょう。こういうのは、キリスト教の変形や異端ではないと思います。力点や見方の違いです。

【挿話】「変形・異端」といえば、「風」今号87号でも触れたのでちょっと重複しますが、昔、隠れキリシタンが、長い潜伏の間に、伝えられた聖書を改作したという話があります。「日本人のキリスト教受容」という点で興味深い話なので敷衍しながら、紹介します。

以下は、河合隼雄さんの『物語と人間の科学』(岩波書店)「隠れキリシタン神話の変容過程」という所からの話です。たとえば「創世記」の『天地はじまり始之事』では、

・原罪が消える――アダムとイヴに「おまえたちは罪を犯したのだから、今から四百年間後悔しろ、そうすれば「はらいそ」に戻す」とデウスがいうのです。こういうふうにアダムとイヴが許されたり、サタンも徹底した悪にならない。これは、日本人が絶対的な原罪や絶対的な悪を理解し難い、受け入れ難いという心性の表れだと河合さんはいうわけです。

・日本神話の「中空構造」――日本は多神教でいっぱい神様はいるけれども、真ん中にいるアメノミナカヌシノカミ(天之御中主神)は何もしない。真中が空いている。それに対して、「旧約」では中心にGodがどーんといて、すべてを作る。そうすると河合さん曰く旧約の「何が正しいとか、何をなすべきであるとか、何がどうだという原理」=創造・律法・善悪などを明確にしようとする心性に対して、日本の場合は、「全体のバランス」がよかったらそれでよろしいと、いうふうになっているわけです。」

つまり、旧約の重い神が正義と掟と罰=「俺の掟を守れ!さもなくば・・・・」っていうのとは対照的に、日本神話では全体のバランスがよければOKということになる。もちろん、どちらが正しいということではありません。日本人の「バランス」感覚は、見方によれば「あいまいさ」にも繋がります。

河合さんの論は、必ずしも「旧約」から律法を超えた「新約」の変化が明確ではないのですが、井上神学や日本人とキリスト教を考えるときに、大変参考になる研究だと思います。

その他に「隠れキリシタン神話の特徴として、神が「能動」的に「光あれ」というのではなく、神自らの「分身」として光を作ったり、母なる宗教性、円環的人生観――踏絵と償いを繰り返すことから暦を大切にしたとか、カインとアベルの話も、日本では農耕と牧畜を対立的に考えることには意味がないので削除されたりとか、いろいろ指摘しています。

テキストにもどります。
【緑p.24~】前回、井上神父が「義=美」ととらえている、ということを学びましたが、そういうことを含めて佐古氏が井上神父を「美意識」、「文学者」ととらえる直観は、言い得て妙ですね。このテキストでも私は「文学になった神学」ということで、第七章で述べていきます。続けて、

【緑L5~】求道中に私もいろいろキリスト教の入門書や教会を物色しましたが、やはり、佐古さんのような持って行き方の方が、あの頃はプロテスタントなんかではメジャーだったんじゃないでしょうか。それで井上神父に出会って、どこがどう違うのか、ということをずっと考えていて、受洗十年後に『パウロを語る』のこの部分を読んで、「あー、こういうところか」と「微妙なニュアンスの違い」――もやもやみたいなことがはっきりした、という感じだったのです。
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