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日本人にわかるキリスト教を求めて

26May2012+011_convert_20120623181132_20120623222548.jpg井上洋治神父は、遠藤周作氏と共に、日本人の感性で正直に受けとめられるキリスト教を一生をかけて模索し、1986年「風の家」をはじめました。このサイトでは、「風の家」運動を引き継ぐ平田栄一が「求道俳句」ほか、日本人キリスト者の道を模索する試みを紹介していきます。お問い合わせ 略歴 著書

第11回四谷講座ノート 2011-3-26/2.井上神学の救済論(4)   

○はじめに:東日本大震災の話と「南無アッバの祈り」

○前回まで
p. 21-22
【緑本=テキスト『心の琴線に触れるイエス』L】この最後の「・・・・」も原文のままですが、ここは、かなり井上神父の心情――井上神学の特徴になる重要な発言です。まず「ニュアンスの置き方」――重点の置き方が違うと断っていますが、その微妙なニュアンスの違いが、神学にも感覚的にも、大きな違いとなって受け取られる。

○ここから
 井上師の、この発言の冒頭の所p.21、イエスは「私たちのために死んでくださった」という。佐古さんと同じようでいて、そうじゃない。佐古さんは「おれじゃないか」(2行目)、井上師は「私たち」→だから、次のページp.22の5行目「自分」こそ「が傷つけたという感じが弱い」という。

 佐古さんの信仰は、ある意味、典型的なプロテスタント的――一対一で神なり十字架と向き合う。井上師はそういう意味じゃ「私たち」と、対峙すべき神と自分との間に緩衝材が入ってしまっている、という批判があるかもしれない。それが、マリアを入れてくるようなカトリック的ともいえるかも。

これも以前にも話したかもしれないけど、内村とかが強調した劇的回心は非常に個人的に、「ああ、この私こそがイエスを十字架に貼り付けた~!」そういう回心が、正しいとされている。
 
ちょっと脱線しますが、デュルケーム(1858~1917)っていうフランスの哲学者がいました。社会学に貢献。
『自殺論』--幸福度を自殺率ではかる。

(wiki)デュルケームによれば
横軸○地理的にみると:農村よりも都市、既婚者よりも未婚者の自殺率が高いなどと言ったように個人の孤立を招きやすい環境において自殺率が高まるとしている。

縦軸○歴史的に見ると:面白いのは、戦争中が一番自殺率低い。で
○宗教的にみると:ユダヤ教徒よりもカトリック教徒、カトリック教徒よりもプロテスタント教徒のほうが自殺率が高く、
cf:「うちの宗教」VS「私の宗教」

ただし、宗教別の自殺率の比較は、その後の研究によって統計上の誤りが証明され、デュルケームが指摘するほどに大きな違いがないことが明らかになっている。したがって、宗教上の教義の違いが自殺率へ影響を与えるものではなく、近代化によって集団・社会の結束度が弱まってきた結果として起こってきたものと考えられる。

そして、緑本に戻ります。
 井上師に対して、佐古さんがp.22中ほど、この「・・・・」は、「この問題はおそらく次の伝道論で出るかと思うのですが」が省略されていて
【緑M】以前の井上師の言葉にあった「犠牲」(サクリファイス)に反応しています。で、
【緑N】この辺から二人の違いがはっきりしてきます。次の「・・・・」の省略は、ちょっと長いのですが、お読みします。

【パ=『パウロを語る』189O】今度は井上師が、前回紹介した、佐古さんの「関係概念」を応用する形で、神-人関係の罪と義の「正しさ」に「美」美しさ――「調和の美」、という「観念がぴったりくる」という。このへんは、青本の最初の方=第1章「美をめぐって」p.21あたりで、あとでまた触れていきますが、井上師は神道的な「穢れ」を罪とみる。日本的発想です。

そして佐古さん、
【緑P】佐古さんは、罪→義の十字架の「犠牲」の意味を最重視する。
井上師は、罪の「汚れを取り去り」、神との美の「調和を回復した」――だから、「十字架より復活」ということでしょう。
cf
佐古:罪→十字架(犠牲)→義(正しさ)回復
井上:罪→復活(昇天)→義(美しさ)回復

 こんなふうに整理できるかもしれません。
緑p.23へ行ってまた「・・・・」の所をお読みします。
【パ190Q】井上師と佐古さんの、さきのような違いは、カト・プロ関係ないという。信仰の「とらえ方」と「強調点」がちがうと、井上師はいう。佐古さんも「受けとめ方のニュアンスが違う」と、微妙な言い方。すると井上師はそうした微妙な違いは「血」にも関係するだろうと、ここで「十字架の血」というキーワードを巡って話が展開する。で緑本に戻って、
p.23 l.3
【緑R】と、佐古さんは先の「犠牲」と同様、「十字架の血」というのが日本人伝道に向いてないと思っている井上師に、突っ込んできます。で、井上師が
【緑S】「十字架の血」から連想するものに着いていけないと、正直にいう。この「・・・・」のところは、こう書いてあります。

【パ191 T】この「小学校の女の子」の話は、国学院の戸田義雄先生編『日本カトリシズムと文学』に収められた、1982年(S57)のシンポジウムのなかでも触れています。それだと「小学校3年生」ということになっています。小さい頃から聖書の話を聞かされ、十字架を見慣れている環境かどうか、というのも大きいでしょうが、リアリティとシンボライズの関係なんかも、民族・文化で相当受け取り方がちがうんじゃないか。

 それで思い出すのは、ムーミンの絵とか、子供向けの動物の描き方の違い――欧米と日本――幽霊とかホラーなんかの怖さの違い・・・。
 いずれにしろ、物質的にリアルであっても、福音の本質を見失うような嫌悪感は問題。

○おわりに:「風の家の祈り」唱和

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