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愛の結び目にあるもの  

キリスト信仰において、神と人への愛を全うした第一人者はイエス自身です。
「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分より優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリストにもみられるものです。キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ2:3~8)
このパウロの手紙に見られるように、イエスにおける神への愛と、同じイエスにおける人への愛の根底にある共通の姿勢は、「へりくだって」「自分を無に」する態度です。謙遜と無心、それは他者あるいは絶対他者に対する自我相対化に他なりません。神への愛と人への愛の結び目にあるものは、この自我相対化だったのです。イエスの言動には、いつでもどこでも通奏低音のようにこの真心(まごころ)が流れていました。
「このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」(同9~11)
ここにおいて私たちは、「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(マタイ23:12)という天の国=救いの法則を見いだすことができるのです。
しかし注意しなければなりません。自我相対化の問題は、一人イエスだけの問題としてすでに解決済みなのでしょうか。あとに続くキリスト者は、そのイエスをただ信じればいいのだ、ということになるのでしょうか。
イエスは、太陽の光をそのまま透過させる水晶のように、神の愛を完全に体現していました。それは、前述の『フィリピ人への手紙』で見たように、「自分を無にして・・・・へりくだって・・・・十字架の死に至るまで(神に)従順で」あったからです。イエスにおいては、100%自我の相対化がなされていた、つまりイエスにおいては自我相対化を突き抜けて、自我の完全無化というところまで行き着いていたといってよいでしょう。
イエスの弟子たちや原始キリスト者が、〝復活〟という出来事を通して知った〝われわれは救われた。なぜなら、われわれと同じこの人間が神によって救われ(たから)〟(カール・ラーナー)という救いの原初的体験は同時に、こうしたイエス理解──自我相対化による救いの原理を含むものだったにちがいないと思うのです。
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