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第9回四谷講座ノート 2011-1-22/2.井上神学の救済論(2)  

○前回まで
p.20
■佐古・井上対談
【レジメにそって、簡単に流れを追う】
で、前回7.信仰と行為という所に入り、井上師は「行為」は「感謝」から出る、また、広い意味で、「信仰」も「行為」という。なぜなら、帰依する=手を合わす、生きることだから。(パ177)したがって,信仰と行為は対立しない.という。また、参考にエレミアスの山上の説教の解釈の仕方を紹介しました。今日はその続きからです。

7補足:『人はなぜ生きるか』より
が、その前に「行為と信仰」について補足:『人はなぜ生きるか』p.133引用
井上神学が実践的といい、体験的というときどういう行為をさしているのか。たまたま、いま、『人はなぜ生きるか』を連載の方でやるために読みなおしていたら、こういう文章があった。
「私にとっての聖書」という書き下ろし原稿の一節です。

「イエスを、キリストを知るためには、どうしてもある行為が必要とされるわけです。その意味では、新約聖書は、・・・・まず第一には、どうしたら私たちが永遠の生命を、神を知り、真の平安に到達できるかを教える実践の書であり、人生のガイドブック指導書であるといえます。」(p.132)

ここ、思い出しますよね。そう緑本p.14で私が引用した『日本――』の最初の部分、それから補足でやった「あとがき」部分の所と同じです。

じゃあ、「必要とされる行為」ってのは何か?前回の善悪の話じゃないけど、律法に代わって、キリスト教は愛だというので、愛を掟化する、なんていうんじゃないですよね。
井上師は何というか、続けています。

「そのため(命を得る)には、イエスが見えない神をご自分のうちに宿しておられる神の子であること、即ち間違いなく私たちを見えない神の御手の中につれていってくださる方であることを信じるという行為が要求される・・・・」「信じるということは、目をつぶってお委せしてついていくことであり、私たちの判断をも神にお預けする行為であると思います。」(p.133)
こういうことで、前回最後にお話し、また先ほど最初に確認した、信仰=行為=手を合わす・頭を下げる、ということが要求されている、ということです。けっして、ここは道徳じゃない! それは結果として、自ずと出てくるに任す。

ということが分った所で、ここで、前に話題にした「井上神学の体験主義・実践主義」ということの内容を確認・整理しておきたいと思います。【板書】

井上神学の
・体験主義=神を知る、イエスを知る、永遠の命を知る・・・・「~を知る」大切さ
で、そのために必要な行為を起すこと

・実践主義=アッバへの信頼、お任せ、頭を下げる=南無アッバ
そういう実践。掟や道徳の実践とは違うということ。こういうことが分ってくると、キリスト教は息苦しくない感じがする。もちろんこういう実践だって、本気でやったら一生ものですが、たとえば、ちょっとした日常の不安や気がかりがあったら、「南無アッバ」良い事があっても「南無アッバ」そういう在世間的な、だれでもできる実践です。奥は深いけど、容易な求道です。易行

8.義認をめぐって
では、話を『パウロを語る』に戻します(172)。
井上師はこの前見たように、佐古氏が特に問題にした『ローマ』7:24「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるのでしょうか。」=傍線までを、回心前のこと――個々の道徳でなく、己を神の座に置いて、人を裁いてしまうエゴイズム、おごりにがんじがらめにされていた心性を「死に定められた体」の罪と考えている。それを回心後の立場から、「なんと惨めな人間」だったのだろうと、回想している、というふうに受け取っています(パ172)。

それに対して、『パ-』ではこのあと、佐古氏の考えが披露されます。これについては、佐古さんの『新約聖書を語る』(NHK出版)という、「心の時代」で1996-7年に放送したテキストのような本にも同じように説明しているので、それも参考にいうと、パウロは回心前のファリサイ派だったときはもちろん、回心後も律法を守ることにかけては大いに自信があった。けれども、そんなことはムダだと、気がつく。だから、井上師と違って、『ローマ』の7章24節までは、回心後のことをいってるのだというのですね。

佐古さんは、ここで、罪と義、あるいは信仰と行為・律法を説明するのに、「関係概念」ということをいうのです(パ178)。
関係概念というのは、創る神と創られた人との正しい関係=義ということ。それをはずれれば罪。この関係が正しく守られるために律法が与えられた。しかし完全に守れる者はいない、にもかかわらず、パウロは「非の打ち所が無い」と「自己義認」する。それが罪だ。義はあくまでも神が認めてはじめて義になる=「神の義」。律法ではなく「信仰義認」なら神が認めてくれる。(「新約聖書を語る」p.238-9 このあとローマ7の議論を展開)。

私なりにまとめると、
井上:律法を完璧に守ろうとすればするほど、あるいは完全に守れたとしても、俺が、俺が、と「自己中心」傲慢になって、神の座につき他人を裁く=罪。
だから、そうではなく自分を相対化して、頭を下げ、手を合わせ、アッバに帰依し、アッバの懐に抱かれること=義。

佐古:いくら自分が完璧でも、神が認めてくれなきゃ神の義にならない。「自己義認」つまり、神に義と認められない状態=罪。
ですから、義の状態は信仰によって、神に認めてもらうこと=信仰義認。

共通点:どちらもエゴイズム=自分中心になることに根本の罪(大文字のSin)があるというのは共通している。
相違点:罪より義や神との関係の考え方に「ニュアンス」の置き方の違いが出てるのではないかと、今回、読み直して気がついてきました。

もうおわかりかと思いますが、井上師は、義認ということ、神に認められるか、られないか、というのはあまり言わない。佐古さんは、神に認められる、神による義認というところにすごくこだわってるように思う。重点がある。

『新約聖書を語る』の「十字架の言葉」という章(13章)にも、
「自分が自分を義と認める(「自己義認」)のではなく、神から義と認めていただけるかどうかという問題です。これが旧約、新約を通して一貫した大事な問題です。」(p.54-55)
といってます。

井上師はそうじゃない。井上師の神観は「アッバ」おとうちゃん!放蕩息子を遠くから迎える父、迷った羊を自分から捜し求める羊飼いのような母性原理の神が強調されている。
だから、そういうアッバが自分を受け入れてくれないなんてことは前提になってない。あるとすれば、自分で作ったエゴイズムの殻、傲慢だけ。

佐古さんも聞いてみれば、同じように答えるかもしれませんが、律法や行為義認にしろ、信仰義認にしろ、神に認められるかどうかってことに重点がある、ということは、井上さんより父性が残っている神観なんじゃないか。まさに微妙なニュアンスだけど。実際、さっき紹介した本=『新約聖書を語る』には、アッバという言葉は、私が見た限り、一回(p.138)――それもクリスチャン同士の兄弟愛=教会生活での交わりに関連しても出てくるだけ。
その代わりではないでしょうが、罪の贖い、犠牲、十字架、血、和解、~の義、義認、そして教会と奉仕、というのも、よくプロテスタントでは(なのに)強調される、不思議と。

今日の講座を準備するので、久しぶりに佐古さんの本を読んだのですが、なんだか昔読んだ懐かしい感覚と、正直、やっぱりこういう持って行き方では、私は入信の決断はできなかったんじゃないか、って改めて思いました。
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