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第8回四谷講座ノート 2010-12-25/2.井上神学の救済論  

テキスト『心の琴線に触れるイエス』
p.20
■佐古・井上対談

1.佐古純一郎
1919(T8)年生まれ-井上より8歳上。徳島県-母の実家西本願寺派真光寺の祖母に育てられる。日大宗教学科卒。親鸞専攻創元社、海軍おうしょう応召。日本聖書神学校卒。S23プロテスタント。角川書店勤務のち文筆家。宗教と文学の対立を必然とする日本的通念に反発、キリスト教的視点から独自の文学批評。やさしい人生論・宗教論も多い。二松学舎大学長。日本キリスト教団中渋谷教会名誉牧師。(『現代日本朝日人物事典』、人名録2002)左資料

2.『パウロを語る』
1990年、佐古氏からの申し入れ(あとがき)朝文社刊。住友ビル朝日カルチャーセンター講師室で親しくなる。当時井上神父の講座は、相当な人気があった。
最初は法然について、と持ちかけた佐古氏→まだ自信ない井上師。で、パウロに。その3年前87年、『キリストを運んだ男』出していた。5回の対談。
とても読みやすい本で、おすすめ。

3.引用部の位置
この本は、目次に
「第1章 迫害者パウロ」
「第2章 ダマスコの回心」
「第3章 アンティオキア教会」と、パウロの活動を追っていって、
「第4章 パウロの信仰と伝道」というところの最後の部分です。

この後は、
終章「第5章 日本人には日本人のごとく・・・・」となり、いってみれば、この引用部は、パウロの信仰や伝道の仕方の本質を探り、そこから、われわれ日本人キリスト者が何を学ぶのか、あるいは一般の日本人にどう伝道すべきなのか、という、いわば伝道論の基本から応用へのヒントになる部分だと思う。
そういう意味で、日本人のキリスト信仰を独自のものとして、追い求めてきた「風の家」の運動、井上神学・遠藤文学に直接関わる重要なところではないのか。だから、私にも非常に印象深く、記憶していたんじゃないか。

では、省略した所も復元しながら、学んでいきましょう。

4.・・・・イエス・キリストを
この「・・・・」のところは、本の元の所は「そうですね。その場合の、」という佐古さんの言葉です。「イエスキリストを通して神が救ってくださる」「その場合の」ということです。 
この第4章は、7つに分けられていて、その最後の項目がここから始まるわけですが、その3つ前の4では、パウロの信仰の本質として、佐古さんから、具体的に『ローマの信徒への手紙』7章が持ち出される。
ここは律法と罪を問題にしていますが、井上師がどう解釈するか、と問うています。ちょっと長いのですが、大事なところだと思うので、そこに引用せれている7章の13節から読んでみます。

5. 『ローマの信徒への手紙』7章13節~
<それでは、善いものが・・・・・仕えているのです。>
それで佐古さんは、とくに24節を話題にします。すなわち、
<わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるのでしょうか>
という所。

ここで井上神父に特徴的なのは、あるいはご本人が言ってるようにブルトマンの影響かもしれないのですが、「死に定められた体」とか23節の「私の五体にはもう一つの法則がある」というのは、「いわゆる道徳的な苦悩」をいっているのではない、というのですね。

私などは、この部分は、思いきり道徳的な感じがしてしまうわけです。それは、井上さんが指摘した箇所よりも、たとえば18節「私の肉には、善が住んでない」「善をなそうという意志はありますが、それを実行できない」19節「自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」など、どうしても、「善悪」というところに目が行き、それを道徳的に解釈しちゃうんですね。若い頃、聖書を読み始めた頃から、直感的にそう思ったし、いまでもふっとそう感じてしまう思いがどこかにある。

(たしかに『注解Ⅱ』でも、15節以下は「分裂した自己を善に向けて刻苦勉励する道徳的態度が、古い時代の出来事として、否定的に語られている」などと書いてはいるのですがね。。。。)

わたしにとってはこういう所なんですね、キリスト教についていけない、と思うのは。いや、キリスト教はいくら道徳ではない、道徳的ではない、といっても、少なくとも一般の日本人が、素手で日本語の聖書を読めば、そう読んでしまうのが普通じゃないか、そう思うんです。私が井上さんに言われた言葉、「日本人は倫理に弱い」ということを繰り返し取り上げるのは、このキリスト教の道徳的なニュアンスというか、臭いが、第一に日本人に対して敷居を高くしているように思えてならないからです。まあ、私自身がそうなんですがね(笑)。これは翻訳の問題もあるのかもしれませんが。

話を戻しますが、そういうことで、私が最初に『パウロを語る』のこの箇所を読んだ時は、すごく新鮮な感じがしたのでした。

ではこの箇所、道徳のことでなければ何を言ってるのかというと、(p169)『ローマの信徒への手紙』の、この後の10章にあるように、「神の義」ではなくて、「自分の義」を立てるということ=「自我の肥大と確立」と神父様は言ってます。要するに傲慢、エゴイズムということですね。これは、『すべては――』の方で、私も少しくわしく分析していますが、エゴイズムというのは、井上さんの罪概念では、すごく重要な部分を占めていると思います。ずっと井上さんの本を読んで来て、またここを再読すると、そのことが、またよくわかる。

聖書の文脈に帰ると、ここはパウロの言葉ですから、ファリサイ派としての、天に代わって人を裁く律法による義、それを「罪の法則」といっている、というのです。「殺すな、盗むな、姦淫するな」という数多の掟を守れない「罪」――ルターや現代人によくある苦悩――ではない、「驕り」「傲慢」「自我主張」という。原罪Sinと諸々の罪sinsということかも(平田)170頁。

エゴイズムというのは、究極的には自分が神の座につく、神になってしまうということです。

こういう驕りの自覚、それが「罪の意識」で、佐古さんも井上師も、親鸞なんかは、すごく強く感じていた、といいます。

で、佐古さんは、入信前は、この深刻な罪意識より、死の問題が大きかったといいます。それが入信後には,罪と死の問題が切り離せないと思うようになる.(171)

井上師は、パウロにとって唯一の大きな罪は、この「神の義」でなく「己の義」をたてることという。(173)
このあと、「義」が問題になり、井上師は「義」とは「正しい」ということ、だから?「神の愛の御手に摂取されること」といいます。(175)

それは「イエス・キリストに帰依することによって摂取される」とも。それが「信仰義認」と。
その後に行為,モラルが出てくる。でもパウロの場合も,「もう摂取されているという大前提で」語られる。そこが大切と念を押してます。(176)

その例のように、「山上の説教」――神のみ手の摂取の前提なしに,読む危険――これは私も『心』8章で書きましたね.井上師は「行為」は「感謝」から出る、という。

また、広い意味で、「信仰」も「行為」という。なぜなら、帰依する=手を合わす、生きることだから。(177)
したがって,信仰と行為は対立しない.という。
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