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救いと隣人愛  

つまり、〝永遠の命に入る〟=救いと隣人愛とは、密接な関係にあるということです。
「なぜ人は、隣人を愛さなければならないのか」、それは単に、イエスの教えであるからとか、あるいは掟として書かれているからということではないのです。少なくともそれだけでは、十分な根拠とは言えないのです。
イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(マタイ22:37~40)
ここで注目したいのは、イエスが〝隣人愛〟を語るときには、必ず〝神への愛〟と同時に、かつ並列に語られるということです。申命記第6章にある〝神への愛〟を「第一の掟」とし、レビ記第19章にある〝隣人愛〟を「第二の掟」として結び合わせ、どちらも「同じように重要である」というのです。隣人愛と神への愛、どちらかが上位にあり、優先されるということはありません。コインの裏表のように密接に結びついているのです。イエスはまた、次のようにも言っています。
「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(マタイ25:40)
これをマタイの文脈から、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者」とは、「通常の経済的貧者や困窮者でなく、福音の伝道者を意味した」(『新共同訳 新約聖書注解』)と限定的に解することもできるようですが、たとえばカルカッタで貧しい人々に仕えたマザー・テレサは、繰り返し次のように語っています。
「・・・・わたしたちは24時間、飢える人の中で、裸の人の中で、家のない人の中で、望まれず、愛されず、世話されることのない人の中で、キリストと共にいるのです。イエスは言っておられます。「わたしの兄弟のもっとも小さい者たちにしたのは、すなわちわたしにしたのである。」(植松功訳『祈り』サンパウロ 17頁)
彼女がこう語るとき、そこには宗教・宗派をはじめ、相手を限定する何の制約もありません。前述の『ルカ』第10章で、「追いはぎに襲われた」ユダヤ人の「隣人になった」のは、同胞の「祭司」や「レビ人」ではなく、犬猿の仲にあったサマリア人でした。
マザー・テレサや「善いサマリア人」の行為はまさに、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44)と言ったイエスの教えそのものの実践であったといえるでしょう。そして、こうした隣人愛が「すなわちわたしにしてくれたこと」=神への愛なのだ、ということなのです。
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