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第二の違い  

 「金持ちの男」には、「(それでも)君には一つ欠けているものがある」といって、財産を捨てることを勧めるイエスだった。
 ところが今度は、「(神と隣人を愛するというのはたしかに)正しい答えだ。(あとは)それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」という。
 でも考えてみれば、「持ち物を売り払って、貧しい人に施す」ことと「愛を実行する」こと、共通しているのは、どちらも本人の「具体的行為」を要求していること。
それからどちらも、結果的に誰かを助けることになる、ってことじゃないかな。
 
そして三点目。
 「金持ちの男」は、「実行不可能」ということで、引き下がったね。
 一方「律法の専門家」は、簡単に引き下がらない。イエスに問い返す。
 「では、わたしの隣人とはだれですか」(二九節)と。しかも「彼は自分を正当化しようとして」尋ねたと書かれている。
 そもそも、この問答の発端からして、実は「金持ちの男」の場合と設定が違うんだね。
 これを四点目としてもいい。
 「金持ちの男」や「喫茶去」の「修行僧」たちは、なんやかや言っても根は、正直で誠実、相手に学ぼうとする態度で一貫していた。
 ところがここの「律法の専門家」は、最初からちがう。
 「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるのでしょうか」と尋ねたのは、「イエスを試そうとした」からだという。
 要するに、最初から「律法の専門家」には、謙虚に教えを聞いて、実行する気持ちなんかなかったんだね。
 そういう何もしようとしない「自分を正当化しようとて」「では、わたしの隣人とはだれですか」と質問する。
 そして、イエスは「善いサマリア人」の話をするんだけど、一番最後の言葉を見てみてください。「行って、あなたも(このサマリア人と)同じようにしなさい。」
 これも、おかしな答えだね。というか、答えになってない。
 「律法の専門家」は、「わたしの隣人とはだれか?」と聞いているのだから、理屈をいえば答えはこの「だれ」にあてはまる言葉をいわなきゃおかしい。
 たとえば、「あなたの隣りに住んでいる人」だとか、「同じ民族」だとか・・・・。
 しかしその「だれ」には答えず、「あんたもサマリア人と同じようにしなさい」という。
 「サマリア人と同じ」ということは、どういうことか?
 その答えは前の節、三六節「だれが・・・・隣人になったか」というイエスの言葉からわかる。
 「サマリア人のように隣人になれ」ということだね。
 つまりイエスは、自分が動かないで、自分を中心に半径何メートルまでが自分の隣人、と限定するような発想自体を、否定してるんだね。
 こういうと、勘のいい人は、もうわかると思う。
 そう、「律法の専門家」の最大の問題は、いじわるをしてイエスを試そうとしたことじゃない。そんな小さいことは、イエスにとってはどうでもいいこと。
 ポイントは、「律法の専門家」の発想が、根本的に「自分が」中心、自己中心性にあるということなんだね。
 「だれが自分の隣人か?」という問い自体が問題だということです。
 「自ら進んで困っている人の隣人になっていく」ということは、その自己中心性を離れろ、ってことなんだね。
 そうすると、この「善いサマリア人」の話も、前二つの話、「金持ちの男」の話と「喫茶去」とやはり同じ、自我の相対化、というテーマが語られていることがわかります。

そして、自ら「隣人になっていく」ことが、「神を愛すること」とともに「永遠の命を受け継ぐ」ための要件になっているのです。

<それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。>(10:28)
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