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良寛の心  

話を戻します。
これまで、「金持ちの男」、そして「喫茶去」という二つの話から、〝自我相対化〟こそが幸福への道だ、ということを見てきました。

うらを見せおもてを見せてちるもみじ

これは、良寛が死の床で口ずさんでいたといわれる句です。
わたしが尊敬している井上洋治神父は、この句を次のように解説しています。

<秋の夕日をうけて、一枚のもみじが裏を見せて表を見せて散っていきます。その無心に散っていくもみじは、わたしたちのように表を見せて人にほめられたいとか、みどりの芝生に落ちて美しく死にたいとか、そういうことはまったく考えず、ただ無心に秋風におのれを任せきって散っていきます。もみじがもし一生懸命みどりの芝生に落ちようと努力して、みどりの芝生に落ちたとしても、そのもみじは、たかだかおのれの美しさをしか示してはいないでしょう。すべてを任せきって、どぶの中に落ちたもみじは、確かに泥まみれになり、みにくい姿であるかもしれません。しかしそのもみじは、さわやかな大自然の秋の生命を、秋風を、わたしたちに告げていてくれるのだと思います。>(『福音書をよむ旅』三三二~三三三頁)

わたしたちは、「俺が、俺が」といくら自己主張したところで、たかが知れているのです。
むしろ、たとえ人知れず、「みにくい姿で」一生が終わったとしても、「すべてを任せきって」まっとうした人生は、「さわやかな大自然の」「生命を」、「風」を──神の命を最大限に表現するものなのだというのです。
その〝泥まみれのもみじ〟としての生涯をまっとうした人こそイエスであるとして、井上神父は次のように結んでいます。

<孤独と屈辱と苦悩の中で、しかも最愛の弟子たちからも裏切られて、ひとり盗賊の間で死んでいった先生イエスさまの生涯は、確かに人間の目から見ればみにくい失敗と挫折の生涯としか見えないかもしれません。しかし、福音書の記者たちが告げるように、その生涯こそは、神の御子として御父の限りない悲愛の息吹きを、わたしたちの救いを告げているのだ、それが福音書の記者たちが語ろうとした神髄であったと思います。>

人間の歴史の中で数多く繰り返されてきた宗教戦争――「聖戦」と称して神の名のもとに殺し合いが正当化されてきました。
この過ちの根本はどこにあるのでしょうか。
それは、神の名を借りて自我の拡大をはかろうとする人間の罪にあるのではないでしょうか。
本来、宗教とはその正反対の姿勢を教えるものなのだと思うのです。
キリスト教の専売特許と思われている教えに「隣人愛」があります。
しかし私はあるとき、教え子から大変まじめに、「では、なぜ、人を愛さなければならないのですか?」と質問を受けたことがあります。
人を愛そうとすれば、裏切られ、利用され、けっきょく損をするだけではないのか、というわけです。
この問いにキリスト者は、どう答えるのでしょうか。
「それはイエスの教えだから」あるいは、「神は愛だから」と答えるのでしょうか。
たしかに聖書には、そのように書いてあります。

<あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたし(イエス)があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。>(ヨハネ一三・三四)
<愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。>(一ヨハネ四・一一)

しかしこうした答えは、キリスト者に対しては愛の根拠とはなりえても(事実、これらの言葉はすべて、新約時代のキリスト者同士の文書で語られているものです)、一般の人たちにはもうひとつ説得力に欠けるものなのではないでしょうか。
現に、昨今の青年たちの間では、「なぜ人を殺してはならないのか? なぜ自殺してはいけないのか?」といったことが、まじめに問題とされているような状況なのです。
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