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〝天国〟とは  

〝あの世〟と〝この世〟の話が出てきたところで、もうひとつイエスの大事なメッセージを見ておきましょう。

<時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。>(マルコ一・一五)

これは、イエスが公生活のはじめに宣べ伝えたものとして、福音書に記されている重要な言葉です。
ここで「時」というのは一時間、一日、一年・・・・というように均等に時計で区分できるような物理的な〝時〟(クロノス)ではありません。
神の計画のなかで定められている、いわば救いの〝時〟(カイロス)を意味しています。
ですから「時は満ちた」を敷衍してみると、〝今や、救いという重大で濃密な時が海辺に潮が満ちるように押し迫ってきた〟というようなニュアンスになります。
次の「神の国」(バシレイア)というのは神が王(バシレウス)として支配する〓神の支配、すなわち神の救い・正義・平和が実現することを意味します。
『口語訳』の『マルコ』では、<時は満ちた、神の国は近づいた。・・・・>となっており、〝時が満ちる〝ことと〝神の国が近づく〟こととが並列に訳されています。
時が満ちてからその次にはじめて神の国が実現するのではないのです。
つまりこの二つのことがらは同時進行なのです。
ですから「時が満ちた」ということは、この歴史世界のなかにすでに「神の国」〓神の支配がはじまっている、ということになります。
「神の国」は、『マタイ』では「天の国」と表現されている言葉と同義です。
キリスト教で一般的に「天国」と言うとき、〝あの世〟〓彼岸の世界を指すことが多いのですが、しかしそれはあくまでも神が完全に支配する国〓「神の国」の一部を意味しているにすぎません。
けっして死んでから後にはじめて入る所ではありませんし、現世の生活とまったく関係なくある日突然実現するものでもないのです。

<神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。>(ルカ一七・二〇~二一)

この句は、イエスの神の国宣教に対して彼に反対するファリサイ派が、「あなたは神の国が来る来ると言い回っているが、いったいそれはいつ来るのか」という質問に対して答えたものとされています。
前半の「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。」というのは、神の国〓神の支配が〝ここからあそこまで〟というように、空間的に限定できるものではないこと、あるいはファリサイ派のように律法を形式的に遵守したからといって実現するようなものでもないことを意味しています。
しかしだからといって後半の「神の国はあなたがたの間にある」という句を、神の国が単に精神的な心の中の問題――いわば〝気の持ちよう〟のようなものとして解釈するならそれはイエスの宣教した〝神の国〟のリアリティを正しく伝えるものではないでしょう。
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