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自我のこだわりが天国を閉ざす  

同じように、「金持ちの青年」にイエスが言いたかったこと、それは、こういうことじゃないかな。

君はたしかに真面目で、正直に道を求めている。たしかに先祖伝来の律法も怠りなく守っていることだろう。しかし、その純粋ではあるけれど、「おれ」はこれだけ頑張ってる、「おれ」はこれだけ施している、そういう心の根底にある「おれ」意識、自己中心性、それが砕かれなければ、ほんとうの救いはないよ。
それが証拠に、そういう君が当然のように親から継いでいる財産、それを全部捨てられるか、考えてごらん?

「喫茶去」は、禅師が三人のお坊さんの自己中心性を突いた所で終わっていた。だから、そのあと、彼らがどうしたかは、わかりません。
でも福音書の「金持ちの男」は、ここで立ち去っちゃうんだったね。

 その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである(『マルコ』一〇・二二)。

 やっぱりちょっとかわいそうだけど、このあと「その人」がどうしたかは、書いていない。
 でもイエスは彼を「慈しんだ」んだから、きっとその寂しそうな後ろ姿を、あたたかく見守ってはいたんじゃないだろうか。
そして、そのあと、弟子たちとの問答が続く。

「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」(二三節)

ここも、「財産のある」こと自体が、問題じゃない。
現にイエスの弟子には、たとえば「アリマタヤのヨセフ」などというお金持ちもいたしね(『マタイ』二七・五七)。
「財産のある者」が、あの「金持ちの男」のように、財産へのこだわりを捨てられないということ。
ほかのどんな掟でも、一〇〇パーセント守り、すべてをなげうったようにみえても、財産だけは捨てられなかった。
その一線、財産へのこだわりというのは、すなわち自我へのこだわりなんだね。
ちょっとむずかしい言い方をすると、無自覚な自我の絶対化が、具体的に財産のこだわりとして、表層意識に自覚された。
自我が絶対化し、自我にがんじがらめになっているから、「神の国に入るのは、なんと難しいことか」と、イエスはいうのです。
それよりも、「らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」とまでいう。
これはイエス特有の誇張表現。ユーモアと皮肉も混ざっている。
これを聞いて弟子たち驚く。
なんで驚くかというと、さっきのぼくの敷衍訳でわかるだろうけど、当時のユダヤ社会では、お金や財産は、その人のよい行いに応じて神様が、ごほうびとして与えたものだという社会通念があったんだね。
つまり、財産を持っているってことは、善人の証明みたいなことになっていたわけ。
それをイエスは、否定するようなことを言ったから、弟子たちは仰天したんだね。
今の時代だったら、やたらに財産持ってると、「なんかあいつ、悪いことでもやったんじゃないか?」って勘ぐられちゃうかもしれないけど。
だから、財産を持っている善人が永遠の命を受け継げない、神の国に入れないっていうんじゃ、「それでは、だれが(いったい)救われるんですか?」ってことになるわけ。

<イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」>(二七節)

「見つめて」というんだから、さっきの「らくだが針の穴・・・・」のたとえのように、ここは、皮肉とかユーモアというレベルじゃない、イエスの確信を表明しているといっていい。
二一節で、「金持ちの男」に対しても、彼を「見つめ、」慈しんで言ったね。
イエスの真剣さ、誠実さがでている。
「人間にはできないが、神にはできる。」何ができるか?
第一には、いま問題の中心になってる「財産のある者(二三節)、金持ち(二五節)が神の国に入る」ことだね。
金持ちが神の国に入るのは、らくだが針の穴を通るよりむずかしいのに、神様ならそれを可能にしてくれる。なぜなら「神はなんでもできるからだ。」というわけです。
これ聞いたら、お金持ちは喜んだろうねー(笑)。
じゃあ、貧乏人は最初からお金がないから、神の国に入れるか、っていうと、そうでもない。
現に、旧約聖書には、さっきいった、富が神からの恩恵のしるし、っていう発想があったのと同時に、富む者は不正、貧しい者は正しい、っていう発想もみられる。
でも、さっき、財産を捨てること、目をえぐりだし、手足を切り捨てることが、すなわち、神の国に入ることとイコールじゃない、っていうのを見たことと同じ。
おれは貧乏だから大丈夫、ってなわけじゃない。
それは、今の文脈の中からも読みとれる。

「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」(二三節)
「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。(二四節)
金持ちが・・・・」(二五節)
「それでは、だれが救われるのだろうか」(二六節)

二三,二五節は、たしかに、金持ちを問題にしている。二六節は、当時のユダヤ教の常識から言って、善人の証明である金持ちが救われないのなら、いったい「だれが救われるのか」という疑問だったね。
だけど、これらにはさまれた二四節のイエスの言葉は、金持ちに限定した言葉じゃない。金持ちはもちろん、そうじゃなくても一般的に「だれでも、神の国に入るのはむずかしいのだ」と解釈した方が妥当だと思います。
それは、金持ちだろうが貧乏人だろうが、「おれ」―自我意識、自己中心性が邪魔をしているからです。
自力で、「おれが、おれが」といってる間は神の国に入れない。
ついつい前に出ようとする自分を、そっと脇へのけて、神に全幅の信頼を置く。
「神様、どうぞよろしくお願いします」っていう心。
それが、

「人間にできることではないが、神にはできる。」(二七節)

という意味です。
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