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恐い言葉の文脈  

同じような話が、ほかにもある。
たとえば、福音書の他の箇所に、こういうのがあります。

「・・・・もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨ててしまいなさい。両手両足がそろったまま永遠の火に投げ込まれるよりは、片手片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。両方の目がそろったまま火の地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても命にあずかる方がよい。」(『マタイ』一八・八~九)

なんだか、おどろおどろしい言葉だね。こういうのが、イエスの言葉として残されているんだね。
しかしこれも、だからって、手足をちょん切ったり、目をえぐり出せば、それで「命にあずかる(救われる)」ことができるか、っていうと、どうもそうじゃないらしい。
実際、中世にはいたんですよ、そういう、文字どおり生真面目っていうか、ほんとうにちょん切っちゃった人が!

この点は、あとでも述べるけど、聖書を読むとき大事な点なので、まず簡単に触れておきます。
福音書の記事は、大きく分けると、二つの種類がある。
<物語伝承>と<言葉伝承>。
だいたいは言葉伝承の方に、イエスの厳しい姿勢が多く伝わっています。
ただ、ここでも、どういう状況のなかでその言葉が語られたか、ってこと=文脈をよくみなきゃいけない。
そうじゃないと、ある言葉だけをポンと取り出して、「これじゃキリスト教は厳しくてついていけない」っていうことになりかねない。
 
右の恐ろしい言葉の場合、イエスが、目をえぐり出したり、手足を切ることそのものを要求してるんじゃないということは、この言葉が置かれた文脈をみれば、わかります。
まず、この言葉の直前、つまり『マタイ』一八章の最初の所を見てみよう。

そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」(一~五節)

つまり、「天国で一番偉い者はだれか」という弟子たちの質問に対して、それは、「自分を低くして子供のようになる人」だとイエスが答える。
で、そういう「一人の子供を受け入れる者は、わたし(イエス)を受け入れる」のと同じだ、というのです。
そして、そういう子供のように「小さな者の一人をつまずかせる者は、・・・・不幸である」(六~七節)。そういうことをするくらいなら・・・・と、さっきの恐ろしい言葉につながっている。
さらに、この言葉のあと、一〇節からは、次のように言っています。

「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちはこれらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔(みかお)を仰(あお)いでいるのである。あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心(みこころ)ではない。」(一〇~一四節)

もう明らかだね。イエスがいいたいことの中心は、「手足をちょんぎれ」ってことじゃなく、「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」ということです。
取るに足りないように見える「小さな者」を軽んじてはいけない、つまずかせるな!
実はそれができたとき、あなたも救われるんだよ、といってるわけです。
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