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期待はずれの言葉  

そして第二の「期待はずれ」の問題。
「道を教えてくれ!」という気持ちに対して、「まあ、お茶でも飲め」なんて、間が抜けちゃうよ。
さあ、ここで、あの「金持ちの青年」の話でいった、ジャブとノックアウトを思い出さないかい?
そう、イエスが「金持ちの青年」の自我意識を叩くために、「おれは善い先生じゃない」「君は、持ち物を全部売れ」っていったね。
どちらも青年にとって意外で、期待はずれの言葉だった。
ぼくはこれと同じ事を、「禅師」はやったんだと思うんだ。
三人のお坊さんたちは、ものすごい努力家であるゆえに、そういう自分を絶対化し、正当化し、当然そういう自分にふさわしい言葉と待遇を期待する。
それをまず、へし折ること。自我をくつがえすこと。
「禅師」はそれをもくろんだ。
もっとやわらかい言い方をすれば、彼ら三人のがんじがらめの自我に対して、「禅師」は一服の茶を、あたかも鎮静剤として処方した。
そういう言い方もできるかもしれない。
イエスが、青年を「見つめ、慈しんで言われた」ように、禅師の目はおそらく、「お前さんがた、そうあわてなさんな。そんなに気負っていては見えるものも見えないぞ」と、やさしく諭すようなまなざしじゃなかったかな。
それを、言葉でなく、お茶をさしだして示した。
さすが、不立文字――悟りは心から心へ伝わるとして文字や言葉をしりぞける――の禅だね。

「おれが、おれが」と自我が勝っているうちは本当の道は見えない、自我が一歩退いたところで見えてくるものがあるということです。
というわけで、この「喫茶去」という話は、「金持ちの青年」の話とすごく符合する、ってことを言いたかったのです。
洋の東西を問わず、どんな場合にも自分をともかく、ひとまず脇に置く――自我の相対化――ってことが、幸せになるためにはどうしても必要だ、という教えを学べると思います。
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