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やはり「おれ」意識が問題  

まず、同じ言葉をかけられたってことは、この人たち、立場や境遇がちがっても、根っこに同じ問題を抱えていたんじゃないか、って思うんです。
それは何か?
ズバリ!ボクはそれが、あの福音書の「金持ちの青年」と同じ、強烈な自我、「おれ」意識だと思うんです。
この話を読むかぎり、三人のお坊さんたちは、みんな真面目で、すごい努力家だよね。
どんな苦難もこえて道を求めてきた二人の「修行僧」たち。
でも彼らには、「おれはすべてをなげうって、あなたに会いに来たんだ」という気負いが感じられます。
とくに「二番目の修行僧」。彼には、「初心のあいつより俺の方が少しはましな・・・・」というおごりがなかっただろうか。
そして「院主」さん。
彼が「禅師」にした質問の底には、「おれは修行を重ねてやっとここまできた。今も忙しい毎日のなかで寸暇を惜しんで頑張っている」という思いが感じられます。
努力そのものは、もちろん否定すべきものじゃない。
学校だって、親だって、君たちに「努力しなさい」と教えている。ボクもそう思う。
しかしそこに大きな落とし穴がある。
自分が頑張って努力していると、知らず知らず、だんだん努力が一番、努力の量で人間に序列をつけていく――
あいつより俺の方が、俺はあいつより・・・・あげく、努力しない人間はダメなやつだ!
努力を絶対視するとそういうことになりやすい。
これ、実は努力だけじゃない。
学校のなかにもある。勉強も掃除もそのものは奨励すべきものだよね。
でも、勉強が絶対、掃除が絶対、となれば、おかしくなる。
絶対というのは普遍(時間や場所をこえている)ってことだよ。
ボクは、人間の営みには絶対ってのはないと思ってる。
どんな場合にも、時と場合がある。
勉強や掃除をいっしょうけんめいやること自体、立派なことだけど、それでいつでもどこでも勉強、掃除。
あげくやらないやつは、おかしな奴だ、おれはやってるのにあいつはやらない。
そんな人間は駄目な奴だ!
そういう意味で、いっしょうけんめいな人ほど危険だ、ともいえる。
ボク自身、カトリックというキリスト教の信者の一人なんだけど、自分に対する戒めも含めていえば、宗教は最も危ない!(笑)
なんせ神様、仏様を絶対視するわけだから。
ここがむずかしいところ。
神様、仏様のため、と思って努力していたことが、いつのまにか自分が中心になって神様の座についてしまう――。
このことには、またあとで述べましょう。

「喫茶去」にもどります。
「院主」さんは、そういう努力家だったからこそ、一番目と二番目の、努力段階のちがう修行僧に、同じ答えをするかがわからなかった。心のなかで、努力の序列をつくっている。
というわけで、三人ともが、それぞれ心の中に、「おれが、おれが」という自我をどうしようもなく抱えていたんだと思います。
ボクは、こういうふうに問題の根っこが同じだから、同じ「喫茶去」って言葉を、禅師は使ったんだと思うわけです。
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