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自分に当てはめて考える  

聖書は、文脈(コンテキスト)を読むことが大事だと、先ほどいいました。
でも、一度そういう文脈を学んだら、それだけでは十分じゃないのです。
今度は、それを、現在の自分の問題に引き付けて読まなければいけない。
今の自分に語られているものとして、解釈するってことです。
そういう二段構えの読み方ね。これは、聖書だけでなく、ひろく古典といわれる書物には、みな当てはまります。
そうじゃないと、古典は、ただの昔話で、今の「自分」の生き方に何の意味もない、他人事になっちゃうのです。したがって、退屈で飽きちゃう。
だから、古典は、あの人、この人で、それぞれ多様な読み方があっていいのです。
自分に引き付ける――こういうのを哲学では「実存」っていいます――つまり、実存的な読み方が大切ということ。
その一例として、さっきの話を、ぼくなりに解釈してアレンジしてみたのです。

「金持ちの男」は、神の掟をいっしょうけんめい守って、幸福をつかもうとしました。
原文19節の、「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え」っていうのは、「モーセの十戒」といって、キリスト教が出てくる母胎となったユダヤ教では、基本中の基本の掟だね。
ユダヤ教というのは、こういう掟=律法を怠りなく守ることで、救いに預かれる、って信じている宗教です。
でもこうした掟をいくらきまじめに守ってみても、どうも今ひとついきいきした充実感がない・・・・。先祖代々の掟をしっかり守れば救われる、と言われてきたのに、どうもちがう感じがする・・・・、とても正直で、誠実な青年の気持ちです。
でもなんでだろう?
ここからはぼくの読み、解釈になるわけだけれど、それは根本的に、自分がいっしょうけんめい掟を守ろうとすればするほど、「おれがこの掟を守る、おれが頑張る、おれ、おれ・・・・」という「おれ」意識にがんじがらめになっちゃっていたんじゃないかと思うんです。
イエスは、そこを突いた。
「善い先生!」という呼びかけに対して、イエスが「おれは違うよ」ってかわしたのがジャブだとすれば、20節「先生、そういうこと(掟)はみな、子供の時から守ってきました」と胸を張って答えたのに対して、今度は21節「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」っていうのは、ノックアウトだね。
でもね、「金持ちの男」に意地悪したんじゃないよ。
それは、21節の「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた」という言葉からも明らかだ。
この男を思いやって、彼の「おれ」意識、自我にジャブをかまし、ノックアウトしたんだと思うんです。
そういうふうに、ぼくはこの話を読んでいます。
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