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想像しながら読む  

この場面をもう一度、想像してみましょう。
「ある人」はイエスに「走り寄って」、「ひざまずいて」、いきなり、「永遠の命を受け継ぐためには、何をすればよいのでしょうか。」といいます。
「永遠の命」っていうのがきっかかる。
現代のぼくたちにはちょっと違和感がある、むずかしい言葉だけど、それはこのあとゆっくり見ていくとして、少なくとも、こういう質問の仕方や言葉に、ただならぬものを感じます。
きっとこの「ある人」は、すごく真面目で一途な人だったんでしょう。
それはこの後の18~20節あたりのイエスとのやりとりからもわかります。
人生、いかに生きるべきか、ってことを真剣に考えていたんだろうね。
だからこそ、ともかく早くその解答を「善い先生」に教えてもらいたい、そういう気持ちが強かったんでしょう。
ここから以下、ぼくがこの話を、ちょっと大胆に意訳・ふえん敷衍(意味・趣旨などをことばを付け加えて、くわしく説明すること)して現代的にアレンジしてみます。
もとの『マルコによる福音書』の話と比べながら読んでみてください。
               *
ある金持ちの青年がイエスのもとに来て、真剣な面持ちで尋ねました。
――先生、どうか教えてください。ほんとうに人間らしく、生き生きと生きていくにはどうしたらいいのでしょう。
イエスは答えました。
――きみはすべきことを知っているじゃないか。
青年はいぶかしげに言いました。
――先生、わたしは世間の常識をわきまえ、親の言いつけもすべて守ってきたつもりです。学問を怠らず、目上の人たちにも礼をつくしてきました。しかしなぜか・・・・これでいいのだろうか、これがほんとうの自分の生き方なのだろうか?と、ふと不安に思うことがあるのです。心からの安心感がないのです。
イエスはそんな彼をじっと見つめ、心から同情し、そして言いました。
――きみの気持ちはわたしによくわかる。君は誠実で勤勉だし、心もやさしい。でもきみには一つだけ欠けていることがありはしないだろうか?
――えっ! どんなことですか? いままでのわたしにどんな手落ちがあるというのでしょう? どこかまちがいがあるのでしょうか?
――これから家にすぐ帰って、きみが親から継いでずっと大切にしてきた持ち物を全部売り払って、そのお金を貧しい人たちに分けてしまいなさい。そのとききみはほんとうに自由になるだろう。わたしについてくるとはそういうことなんだよ。
――そっ!そんな?! だってわたしが手にしている財産は先祖がいっしょうけんめい努力して、神様からご褒美として賜ったものではありませんか。それをわたしはずっと誇りに思い、無駄使いもせず大切にしてきたのに・・・・。
こうして青年は悲しい顔をして帰っていきました。どうしても自分の財産を捨てることはできなかったからです。
そのあと、イエスはこのやりとりを聞いていた弟子たちに向き直って言いました。
――財産を持っている者が、それに囚われないで生き生きと生きていくのはなんとむずかしいことだろう。
弟子たちは驚いて言い合いました。
――だれだって自分の才能や持ち物を大切にし、それで自己実現するために生きているのではないか。現在や将来の生活のために毎日いっしょうけんめい努力するのはあたりまえではないか。師はそれをいけないと言うのだろうか・・・・。だとしたらいったいだれが生き生きとほんとうの自由を得ることができるのだろうか? 
こう言う弟子たちの気持ちを、そして日々の生活のために誠実に努力している人たちのことを痛いほどわかっているイエスは、彼らをじっと見つめて言いました。
――まちがってはいけない。努力や才能あるいは財産そのものが悪いわけではない。ただ自分の努力や才能、ましてや財産の大きさでほんとうの自由が得られると思ってはならない。ほんとうの自由、ほんとうに生き生きとした生き方は何にも囚われない心にしか与えられない。あの青年のように、人間はどんなに誠実だと思っていても、意識できない心の奥底で何かしら自分のものだと思い込んでいるものに囚われているのだ。財産も才能もあるいはそれらをみがくために努力しようとする種さえ本来自分のものなど何一つもないのに、それらを自分に根源的なものと思い込んでしまう。そこに自分自身が、無から有を創った神になりかわろうとするエゴイズム〓罪があるのだ。そういう自己中心性があるかぎり人間はけっして幸福にはなれない。
弟子たちはすっかり暗い気持ちになってしまいました。
――では、どう人間が努力しても無駄なのだろうか・・・・。
イエスは彼らをさとすように続けました。
――神から賜ったいろいろな種を大切に育てることは人間の使命であり、それは神様の心にかなったことだ。しかし根本的なものはすべて神からのものであり、その種を開花させ完成させるのも神の働き、神の力によるものであることを忘れてはならない。けっして人間の力で自由が得られると思ってはいけない。人間にできるのは、ほんとうの自由を人間にお与えになりたいと望んでおられる神に協働することだけなのだ。中心はあくまでも神にある。このことをわきまえていれば、けっして人間の努力は無駄ではない。しかし人間はすぐにそれを忘れ、自分の力だけで何とかできると思ってしまうのだ。
弟子たちは落ち着きを取り戻し、表情も明るくなってきました。
――ではわたしたちがその大切なことを忘れないためには、どうしたらいいのでしょう?
 イエスはおだやかに答えました。
――それを可能にするのは・・・・
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