「南無アッバ」を生きる ホーム » スポンサー広告 » 求道詩歌誌「余白の風」 »第178号 2010年10月発行 『日本とイエスの顔』ノート

日本人にわかるキリスト教を求めて

26May2012+011_convert_20120623181132_20120623222548.jpg井上洋治神父は、遠藤周作氏と共に、日本人の感性で正直に受けとめられるキリスト教を一生をかけて模索し、1986年「風の家」をはじめました。このサイトでは、「風の家」運動を引き継ぐ平田栄一が「求道俳句」ほか、日本人キリスト者の道を模索する試みを紹介していきます。お問い合わせ 略歴 著書

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第178号 2010年10月発行 『日本とイエスの顔』ノート  

A4プリント版見本

日本人の心の琴線にふれるイエスの顔を求め、福音を生きる

井上洋治神父のうた(*主宰寸感)

――りすくん、ほんとに きみは素敵だよ――

今日も枯れ葉のおふとんで/地面の下に眠っている/気持ちよさそに眠っている/ぐーぐーぐーと眠ってる/冬眠だ 冬眠だ//週に一回目をさまし/おしっこしたらまた眠る//もしもぼくが一人だけ/目がさめなかったらどうしよう/地震が来たらどうしよう/目がさめたとき どうかして/父ちゃん 母ちゃん いなくって/ひとりぼっちになったらどうしよう//きみはどうなんだ/そんな心配ないのかね/あ、そうか/南無の心で生きている/きみにはそんな心配ないんだね/心配なんかひとくるみ/みんなアッバのふところに/あずけてしまっているんだね//アッバ アッバ 南無アッバ
(「風」第85号10年夏・秋)

*前段の「冬眠」は、キリスト者にとっては、復活までの眠り――死の時間を想わせるかもしれない。であればそれは、けっして恐いものではなく、むしろ「気持ちよさそ」な時間であろう。しかし私たちは、このあとどうなってしまうのか、と心配になる、不安になる。「りすくん」は、「南無の心」が徹底している、えらい!学ばなくっちゃ。心配を「ひとくるみ」にして、「アッバのふところにあずけてしまう」――井上神父からよく聞いた祈り方――アッバの御前に日向ぼっこして、心配が沸いたら風呂敷にくるんで、アッバの足元にポン。「あの人のこと、よろしくお願いします」で、またポン。最後は「みーんなよろしくお願いします」・・・・テレジアの祈りを想う。こんな祈り方があるんだなあ、と30年前に感心しながら聞いていた頃が懐かしい。

会員作品とエッセイ

 鴉  練馬区  魚住るみ子

石畳へ雛の落ちたりと親鴉地(つち)に降り立ちするどき眼(まなこ)す

声音所作意志あればこそ現はさる生きとし生けるものの繋がり

*連作四首の二首。お手紙には、「鴉と人間である私との間の意志、気持ちの通ひ合ひに、びっくり」と。


名古屋市  片岡惇子

薄野にマリアとマルタ擦れ違う

秋桜阿吽の夫婦影一つ

行先は知らぬと柿の種飛ばす

9月18日から二泊三日で、パウロ会主催「信徒の霊性」テーマ「マルタとマリア」研修会に参加しました。名古屋はまだ猛暑。ここ箱根は、薄野が広がり、すっかり秋でした。
森司教様の講話・ロールプレイに基づき、グループ毎の分かち合いと発表。御ミサとご馳走と富士山。恵まれた時を過ごしました。

現代社会における闇と、私たち信徒がどうキリストに繋がって生きていくか。マルタは、TO・DOの人であり、能力に恵まれて自分自身を肯定できる人。マリアは、能力のない、存在するだけの人。しかし、TO・DOの世界の中で行きなければならない。自己を守ろうとする本能が、最終的に追い詰められ、自分を責める。居場所がなくなっている人である。

マリアは、イエス様の元に「この人なら大丈夫」と、イエス様の存在全体から発信している優しさに安心して、イエス様に出会った時、感激の涙を流す。居場所を与えられた時(キーワード)そこには希望がある。森司教様はルカ福音書の「マルタとマリア」を序章として、このように話してくださいました。参加者の深い思いが分かち合われて行きました。

*すばらしい研修会でしたね。「善いサマリア人のたとえ」に続く「マルタとマリア」意味深長です。


大和市  佐藤悦子

  巡礼者の幸福
 しあわせな人、あなたの家をすまいとし、絶えずあなたをたたえる人、しあわせな人、あなたによって奮い立ち、巡礼を志す人。かれた谷を通り、そこに泉を見つけ、かれらは秋の雨の祝福を受ける。(詩編84)
サンチャゴ路友の巡礼南無アッバ、ヤコブの手紙読みて祈らむ。

今日ここが吾が巡礼路南無アッバ

来し方の恵みに出会う彼岸ミサ

*井上師の詩集『南無アッバ』読書中の由。詩心の巡礼をどうぞお続けください。


京都市  瀧野悦子

国籍は天に結ばれ南無アッバ

秋日差すピエタの像に十字切り

黒髪のマリア観音菊匂ふ

*天地を結ぶ「南無アッバ」の祈り。他に「nice to meet you 南無アッバ」などの楽しい句も。


一宮市  西川珪子

人ひねもす待ちて日暮れの夕茜

庭隅に吾れ憩はしむ赤まんま

コスモスと語らう風は愛深し

*気のふさぐとき、ちょっと外に出て気をつければ、たちまち自然が囁いてくれる、そんな情景。


秦野市  長谷川末子

継ぎ物とニュース観る人夜長かな

秋冷をまず受止める膝頭

木の間洩れ樹上に月のぽんと出る

 意地悪
気持が沈むと悲しいな/気持が沈むと無愛想/気持が沈むと意地悪に/誰かの視線を感じます/いけないいけない忘れてた/恵みの数の多い事

*気持が沈むとき、「南無アッバ」を唱え、お守り札を握り締める。そういうとき「誰かの視線を感じます」


稲城市  石川れい子

水上能松の風吹く月の夜

月光の中に小太鼓大太鼓

月明の水面に写る松風よ

古も今も変らぬ中秋の月を愛でむと集まれる 所は都下の多摩センター きらめきの池の畔なり。水面を走る雲白し。舞台の後は松林 松の風吹く桟敷席。ねぐらに帰る鳥たちも 寄り道してるこの夕べ 灯に集ふ虫あまた 幾千年 縄文 飛鳥 江戸 明治 文明進む人の世に 昔と同じ月ひとつ。月々に月見る月は多けれど 月観る月はこの月の月。月明かりに浮かぶ能舞台 幽玄の世界 人世のことから離れて一人来てみれば 月の光の下に集う人 鳥 虫たちが一つになり 何かを讃美 声なき声で歌っていた
 南無アッバ 南無南無アッバーと。

*一等席での鑑賞とは羨ましい。臨席できなくても御句文から、その場の雰囲気が伝わってくるようです。


八王子市  井上文子

魂の童話が欲しい老齢期

老いの荷を賜物として南無アッバ

風呂敷に亡母の小話浮き上る

*老いて幼子に帰るといいますが、「幼子の道」はキリスト者にとって最善の道――「荷を賜物」と思う程。


蓮田市  平田栄一

晩年はパンをかじりて親鸞を読まんと言いし恩師も逝けり

未決囚のごとき心地というべきか「所見なし」とカルテにあれば


ブログ『日本とイエスの顔』ノート

 第1章 ベルクソンからの2つの認識方法の違いと重要性を指摘。
第2章 復活や信仰にまつわる聖書の読み方=文学類型を無視した解釈の危険をいう。このあたりから、出版当時は反発を覚えた人もあったであろう。

 第3章~p50 エルサレムを中心としたユダヤ地方と、イエスの生まれ育ったガリラヤ地方の風土・歴史を対比し、イエスの思想・信仰が形成されていく必然を考察する。そこには、キリスト教をユダヤ教と同様、父性原理の強い宗教と考える一般の誤解を解きたい、という井上神父の主張がよく表れている。

p50~53 ガリラヤ湖の北、コラジン旅行で井上師が気づいた草と虫の声。これだけでも、明らかにユダの荒野とは異なる風土。このことから、和辻風土学に及ぶ。風土の力がいかに人間の考え方や文化形成に影響するか、はかりしれない。

p53~54 インドの伝説は印象的。恵みの太陽という発想は普遍ではない。元凶の象徴という捉え方もある。ここまで、風土の影響力がいかに大きいか、ヨーロッパ、日本、インド、砂漠で比較。

p56~57 神殿との距離、外国人支配の長さによっても、正統ユダヤ教から変質したガリラヤ地方。

p59 イエスがユダヤ教民族主義を超え得たのは、ガリラヤの風土・文化とユダヤ教の形態を大きな要因とする。
(ここまでの学びから)わたしたちは、つい頭の中だけで考えてしまいますが、実際には、どんな偉大な思想も、その生まれてくる環境――気候・地形・・・もしかすると食べ物・着るものにいたるまで――に影響されて、形成されるのではないでしょうか。

p59~62 ユダヤ教からキリスト教の発展過程には、質的な非連続性があったことが述べられる。井上神学では、先の風土重視と並んで、とくに強調されること。(現代では、逆に連続性をいう学者もいる) ただしこれは、ユダヤ教批判ではない。キリスト教が民族宗教から世界宗教に発展するには、非連続性は不可欠の要素であったということ。ここでも、文化と結びつかないキリスト教はあり得ない、と主張し、「キリスト教は一つだから、アジアもヨーロッパもない」という発想に対抗する。


後記

「風」読者の皆さんは第85号巻頭文、井上神父の「ご挨拶」をお読みかと思いますが、日本人の感性でイエスの福音を受け止める「風の家」運動は、今後、第二世代に引き継がれていくことになります。
井上師引退の寂しさは、もちろんですが、この運動がアッバのみこころにかなうものであれば、次々と精神のバトンタッチがされていくことでしょう。

さて、「風」あとがきには、今後の活動の主なものが書かれていますが、「風編集室」の山根さんと相談しながら、微力ですが、私としてもできる範囲で、この運動を継承していきたいと思います。

当面、①南無アッバの集い・講座とお札の配布、②「風」への連載、③求道詩歌「余白の風」発行、そして④サイト運営と、これまでやってきたことを、ここで改めて初心にかえり、継続していくつもりです。

ご賛同いただける方は、どうぞ私どもとごいっしょに「南無アッバ」の祈りを唱え、道を求めてまいりましょう。今後ともよろしくお願い致します。


○井上神父司式の最後の「南無アッバのミサ」
10月16日(土)14時 四谷ニコラバレ聖堂
*受付はありません。どなたでもおいでください。

○南無アッバの集い・講座「井上神父の言葉に出会う」第7回。11月27日(土)13時30分。四谷ニコラバレ会議室:講師・平田栄一。会費千円。

*投稿は原稿用紙使用。採否主宰一任*締切=毎月末必着*年会費二千円(送料共)
入会希望はメールにて。

category: 求道詩歌誌「余白の風」

thread: 求道詩歌

janre: 学問・文化・芸術

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