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無と風 107-109  

無を荘子・芭蕉・一遍から「風」をキーワードに理解します。

「荘子」の地籟・天籟のたとえ
-それぞれに特有の音をたてさせる天籟のように、
われらの喜怒哀楽・動物の鳴き声も、
すべて見えない何かによって生命を奏でている。

芭蕉「奥の細道」の冒頭「片雲の風」、
あるいは「風雲の情」「心匠の風雲」などは、
「天籟の風」を意識している。

一遍は「・・・・・居住を風にまかせ」
と記す。

「風」あるいは、「プネウマ」は
ご存知のとおり、井上師の機関誌の名称にも使われている。
神父の中ではいつも意識されているキーワード。

「神の国」理解に「無」がかかせず、
さらにそれは「風」をもって深まる。
注目すべきは、
その例証が、東洋の古典にあるということ。
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category: 『日本とイエスの顔』

thread: 聖書・キリスト教

janre: 学問・文化・芸術

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コメント

風(プネウマ)について

人間の深層心理に働きを及ぼすものを表現する用語として、洋の東西を問わず「風」という単語が用いられてきたことは注目に値すると思います。
教会用語でのプネウマ(聖霊)は言うに及ばず、中国・日本の古典の中で用いられる「風」という単語は、単なる気象現象ではなく、「己を風に任せる・・・」というニュアンスとして用いられ、根底には「人生の主役をこちらからあちらに委ねる境地」が流れています。
まさにここに、これまで学んできた「神の国」が表現されていると言っても過言ではありません。
この「風・プネウマ」を素直に自身の心に導き入れるための行為が祈りなのだと思います。
祈りを通じてひとつの決断・受容に至ったとき、キリスト教用語では「聖霊の導き」と表現するのでしょう。
もちろん人間の頭脳の中にもともと存在しない結論がテレパシーのように入ってくるわけではありません。
通常、人間には「こうあるべき、こう行動すべき」という良心のささやきが常に存在します。
このささやきの源は、真の意味で「善く生きたい」と願い、自己の生の意味を求める人間固有の欲求です。
しかし、いろいろなしがらみや虚栄心、損得勘定など、如何ともしがたい業のようなものが茨のように巻き付いて、まっすぐには良心の導きに従えないこともしばしばです。
この巻き付いた茨を取り払っていただいて、無垢な幼子の心に戻ることで、人は心が自由になり、真の意味で「善く」生きることが可能となります。
まさに「人生の意味への意志」が満たされるわけです。
茨撤去を素直に受け入れるためには、そのお役目をしてくださるかたに対するゆるぎない無限の信頼を持ち続けることが必須であり、この心を持ち続ける努力がすなわち信仰なのだと思います。

いつもありがとうございます。
今後ともよろしくご指導のほどお願い申し上げます。

mitakaforest #XM8vAG0k | URL
2010/09/30 14:12 | edit

mitakaforest様

まことに、深い御考察ありがとうございます。
私も勉強になります。
>、「己を風に任せる・・・」というニュアンスとして
の所で、井上神父の聖句翻訳を思い出しました。

風に己れを
 委せ切って
お生きなさい(ガラテヤ5:16)

yohaku5 #oBO5MkqQ | URL
2010/09/30 16:58 | edit

コメント御礼

先日はいろんなコメントありがとうございました。
今日は『風』ということですが、『無』ということもキーワードですね。
人間の深層心理に至るには『無』が必要なのですね!
無心になることが、風を呼ぶという働きがでてくるのでしょうか?

『神に国は吾らを包む「根源の大生命の流れ」であり、
その永遠の生命の流れは、吾らを包み込んで流れ始めている』
・ ・と先の方に書かれてましたが私が思うに昔からすでに流れていて
・ 我々はそれに気づくか気づかないには拘わらず流れているんでは?と思いました。

無心になることが祈ることなのでしょうか・・。
それならば、案外、昔から我々の意識化で行なわれていたようにも思えます。
良心のままに・・・。

【風に己れを
 委せ切って
お生きなさい(ガラテヤ5:16)】は井上神父さまの聖句翻訳ですか?

共同訳聖書では『霊の導きに従って生活しなさい。』ですね、『従え』と『委せ切って』とではニュアンスが随分違いますね!そのへんが日本人の感性なのでしょうか?
面白いなとおもいます。

nonohana #- | URL
2010/09/30 17:38 | edit

nonohana様

>共同訳聖書では『霊の導きに従って生活しなさい。』ですね、『従え』と『委せ切って』とではニュアンスが随分違いますね!そのへんが日本人の感性なのでしょうか?

そうですね。
井上神父様の功績はいろいろありますが、
私は、こうした自在な聖書「敷衍訳」は、
日本人にとって、画期的なものだと思っています。

yohaku5 #oBO5MkqQ | URL
2010/09/30 17:46 | edit

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