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神の国は実現している p.101-104  

前回に見たように、
自ずから成る神の国は、
さらに、驚くべきことに、
イエスのおいては、完全な形で実現していることが示されます。

それは当時のユダヤ教での2つの「神の国」概念を超えるものでした。

そしてそれは、
イエスの中に充満して、
いわば、
「泉が地上に湧き出るように、梅の花から自然に快い香りがたちのぼるように、
そこから愛が私たちのいのちと生活に匂いでていくのです。」(103)

主役はあくまで、
神の国そのものにあります。
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category: 『日本とイエスの顔』

thread: 聖書・キリスト教

janre: 学問・文化・芸術

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コメント

神の国とは?

【神の国・・・(わたしたちが寄って立つ根源・われわれはそれに包まれている)
=自ずから成る神の国(イエスにおいては、完全な形で実現)

イエスの中に充満して、そこから愛が私たちのいのちと生活に匂いでていく】
・・・・とまとめてみましたが

Mitakaforestさんは
『神の国とは、「すべての現実を神の恵みとして喜んで受け入れ、いかなる時も共に歩んでくださる神の温かさを実感しつつ、前向きに一歩を踏み出すことのできる心の状態」と考えます。
人生という時の流れを究極まで微分してゆくと、日々の小さな決断・受容に至ります。
やり直しのきかない過去と不確定な未来の狭間で、この日々の小さな決断・受容にあたって、「神」のぬくもりを感じるために不可欠な行為が「祈り」です。』

・ ・と書かれていますがとても理解しやすいです。


ところで・・・

質問1です。 神の国を完全な形で実現したのはイエスということになりますが、キリストの行いに習って生きることが【各々の神の国(自分の根源?ですか)】
の実現に必要である・・ということですか?
主役が【神の国】であるということは【イエスの完全な神の国体験】をすることによって
そこから【イエスの愛が溢れてくる体験】を私たち各々が体験できるということでしょうか?

質問2です。『日本人とキリスト』を意識するとき、キリストの行いが日本と違う土地で生まれたものでも、『我々人間』という共通の部分で啓示されたのなら・・・
その『共通の部分』を大切に考えるとキリストへの道は各々の違い(国の違い・民族の違い)こそあれ、結果的に【同じ】になるように思いますが、やはり【日本のキリスト教】を意識した方が入りやすいのでしょうか?(愚問かもしれません、すみません)

私の経験では、やはり西洋諸国から伝えられた【キリスト教】はプロテスタントを含めると多数ありますが、違和感を感じたことはありますが、それと同時に憧れのようなものも感じます。
しかし、同じ宗派でも教会が違うと(共同体が違う)と違和感を多く感じた思いがあります。そういう【現実】を【すべての現実を神の恵みとして喜んで受け入れ、いかなる時も共に歩んでくださる神の温かさを実感しつつ、前向きに一歩を踏み出すことのできる心の状態】に保てない【現実】には重いものがあります。
いわゆる・・学校でいえば『不登校』であり、ある意味『教会アレルギー』に陥るのです。
こうやってインターネットでキリストに接するのはそんな私の最後の接点かもしれません
こんな私ですがこちらで学ばせていただいてます。

余白さんとMitakaforestさんに感謝いたします。


nonohana #l.rsoaag | URL
2010/09/28 11:16 | edit

nonohana様

レスありがとうございます。

質問1
>キリストの行いに習って
というところで気をつけなければならないのは、
「個々の行い」を真似るということではないということです。
このことについては、
今号の「風」連載に書きました
http://yohaku5.blog6.fc2.com/blog-entry-1470.html
ので、すでにお読みかもしれませんが。。。。

結論的には、イエスの完全な「南無アッバ」の姿勢をまねる
ということだと思います。

質問2
「キリストの行い」という上のご質問との関連で考えますと、
たとえば、「愛の行い」といったとき、
西欧人と日本人では、結果として出てくるものに
違いがあるのではないでしょうか。
ここらへんについても、私は興味があるので、
ここのところ、連載でこだわっています。
「為す愛」「為さざる愛」などと、
わけて考えていますが、
http://yohaku5.blog6.fc2.com/blog-entry-1362.html

御質問に、的外れであれば、ご容赦ください。
そういう出方に違いがあるのではないかと思います。

yohaku5 #oBO5MkqQ | URL
2010/09/28 13:28 | edit

nonohanaさまへ

温かいメールをありがとうございました。
平田先生のサイトでご縁をいただけたこと、これもひとえにアッバのご配慮ですね。
私は、ただ井上神父さまや平田先生のご著書だけをたよりに、遅々とした学びを細々と続けているものです。
どうぞよろしくお願いします。

<質問1>
イエスのメッセージのオリジナリティーは、主客転倒の発想にあると思います。
この心の状態が「神の国」ではないでしょうか。
そもそもスタートとゴールに自らの意志を全く反映できない人生という不可解なレースにおいては、思うに任せない出来事が次から次へと起こります。
「どうして自分ばかりこうなんだろう・・・」と嘆いたところで何も始まらない・・・。
前向きな明日への一歩を踏み出すべく、人は洋の東西を問わず、太古の昔から、宗教というものを求めてきたのだと思います。
自らが全幅の信頼を置ける「神」という存在をもし信じることができ、悲嘆の底にあっても、すべての出来事を、愛する神からの大切なプレゼントだと思えたら、人はどの場面でも人生に光を見いだすことができます。
あくまで大好きな神さまが主役。
今の自分の状況は神さまの大きなご計画のひとこまなのだ・・・。
どんなにつらくみじめな状況でも、その自分はアッバが手塩にかけてくださった作品なのだ・・・。
そう心から思えれば、「今」を投げ出さずに丹念に時を重ねることができるような気がします。

<質問2>
日本のキリスト教は、輝かしいヨーロッパの文明と共に颯爽と我が国に入ってきました。
私たちの先祖の時代から、羨望のまなざしとともにキリスト教を見つめてきたことも確かです。
建築、美術、音楽、どれもすばらしい価値があり、私たちがそこから学ぶものもたくさんあります。
しかしこれらは、ヨーロッパの人々がヨーロッパの文化の土台の上で、イエスさまのメッセージを伝えるために、長い年月をかけて作り出したいわば小道具のようなものであり、本質ではありません。
ユダヤの民俗宗教の一派であったイエスさまの教えを、パウロは人生を賭して、ギリシャ・ローマに根付かせました。
イエスさまの教えをヨーロッパというバイパスを敢えて経ずに、日本の文化に合ったかたちで、その核心部分をお伝え下さる重責を担ってくださったのが井上神父さまなのだと思います。
樹木は大木で移植するより、苗木で移植した方が、そのお庭や気候に順応して、力強い大樹に育ちます。
イエスさまのメッセージは、それぞれの文化・風土の上に花開かせてこそ、真の身の丈にあった生きた信仰に育つということもあるのではないでしょうか。
法然、芭蕉、和辻哲郎・・・など、日本民族の育んできた貴重な遺産からは、私たちが意識する以前の日本人に共通の人生に対する感性が読み取れます。
井上神父さまは、それらを丁寧に比較検討して、古から日本民族が育んできた宗教性(ここには必ず人生における主客転倒があるわけですが)を追求されました。
およそ人として生を受けている限り、根本的な人生の壁はみな同じ。
その共通性を突き詰める中から、イエスさまが命を賭けて伝えたかったことが浮き彫りになってくるのだと思います。

またいろいろ教えてくださいね。
取り急ぎ、私の拙い考えを述べさせていただきました。

mitakaforest #XM8vAG0k | URL
2010/09/28 22:53 | edit

コメントありがとうございました

余白さん、Mitakaforestさん、いろいろとコメントありがとうございました。 

余白さんの>たとえば、「愛の行い」といったとき、
西欧人と日本人では、結果として出てくるものに 違いがあるのではないでしょうか。

・・・・は私も興味あります。が、違いがあるのは、やはり文化が違うせいでしょうか? 何だかきっと神様はいろんなパターンを創造したかったのだな・・?!と思ったりします。


mitakaforest さん

>私たちが意識する以前の日本人に共通の人生に対する感性が読み取れます。

この辺の感性からキリストに通じるものを考えるのが井上神父さまの感性なのですね!

・・・今のところ・・・こういうことしか書けませんが、返信御礼と
いうことで・・・ありがとうございます。

nonohana #l.rsoaag | URL
2010/09/30 14:19 | edit

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