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都合の悪い言葉ほど史的事実!?  

ところが、イエスはこの呼びかけに対して、「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。」(18節)と答えます。
このイエスの最初の反応は、どうだろう?
すぐ思いつくのは、イエスの謙虚さ、謙遜ってことだね。
「自分は『善い先生』などと呼ばれるほどの者じゃないよ・・・・」という、偉い先生だからこその謙虚さ――。
ただぼくは、それだけのことなのかな? とも勘ぐっちゃいます。
何かもう少し深い意味が隠されてやしないか・・・・どうだろう?

さっきもいったように、福音書というのは、「イエスをキリスト(救い主)」と証言し、またその信仰を強めるために書かれた書物でした。
とすれば、それを書いている著者、つまりマタイやマルコなどの福音書記者にとっても、読者である原始キリスト教団(初期のキリスト教会)の人たちにとっても、イエスは当然、「善い先生」だったはずだよね。
ところがそれを否定するような言葉が、イエスの口から出た――。
これは、「イエスこそキリストだ、神の子だ」と宣言する福音書の趣旨や目的、原始教団の信仰に、あまり都合のいい言葉じゃない。
でも、そういう言葉が福音書には、ところどころ残っているのです。
さっきぼくは、福音書というのは伝記風の信仰書、といったけど、その意味は、ぼくたちが普通にいう「伝記」とはちょっとちがう。
つまり、年表を文章にしたようなかたちで、何年の何月何日に何があって、イエスはこういった、次には・・・・というようなことには、あまり関心が払われていないのです。
むしろ、福音書記者の関心は、「イエス=キリスト」を宣言するために、集めた資料を、けっこう自由に再構成しています。
こういう話を聞くと、たぶんきみたちがすぐ気にするのは、イエスはマリアが処女だったのに生まれたとか、奇跡を起こして水の上を歩いたとか、ただでさえ信じられないのに、そのうえ信仰のために史実をねじ曲げたような本が、いったいどれだけ信用できるか、ってことじゃないですか?
これ、「福音書の史実性」という古くから議論されていた問題です。
ここで奇跡をどう解釈するか、というのはまた別の機会にじっくり考えるとして、こういう福音書、あるいは新約聖書全体の性格から考えると、キリスト教にとって一見都合の悪いように見える記事ほど、史実性がある、とはいえないだろうか。
典型的なのは、ペトロや弟子たちの裏切り。

弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった(『マルコによる福音書』14・50)。

イエスの死後、初期キリスト教会のトップとなっていった弟子たちが、まっさきにイエスを裏切って、逃げてしまった。
こんなことは、どう見ても教会にとって都合のいいことじゃない。権威が傷つくでしょ。
そういうことを、ちゃんと記録しているのです。これは明らかに史的事実だと思います。
同じように、さっきのイエスの言葉、「オレは善い先生じゃないよ」というのも、実際イエスが語ったそのままの言葉なんじゃないかと思います。
当時の教会や信者に都合の悪いような言葉が、イエス自身の口からやはり実際に出て、多くの人が憶えていた。だから、簡単に削ったり、変えたりできなかったと推測されるからです。
それだけに大きな意味を持っていると、ぼくは考えます。
だから、このイエスの否定の言葉をもう少し、つっこんで考えてみたい。単にイエスの謙遜の思いから発した言葉じゃない、ということをね。
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